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パープル・サンフラワー(小説)

マルタン丸山




第八章  偽装(ぎそう)の閃(ひらめ)き









     1 ソビエト・ハバロフスク病院



 「もっと明かりを……。」

 ドクター荻野(おぎの)の低い声に、

看護婦長は、

もう一台のライトを手術台に近付け、

スイッチを入れた。

 手術は、難航(なんこう)している。

 腸と皮下脂肪が癒着(ゆちゃく)し、

巨大に腫(は)れ上がっていた。

 盲腸の手術も、

一つ間違えば命取りになることを

知っている荻野は、

化膿(かのう)した部分を

慎重に摘出した。

そして、細い糸を針に通した。

その糸は、

トナカイの腸の繊維から

作られた糸で、

抜糸せずとも人間の身体に融け込む、

高価な糸だ。

収容所から来た患者は、

抜糸のためには、

二度と病院には来れない。

そのために荻野は、わざわざ、

その高価な糸を

囚人のために使用している。

 後を若い医者に任せて、

酸素吸入のマスクの下の

患者の顔を見つめた。

 が、その次に、

今、縫われつつある

傷口の上の脇腹に、

深く刻み込まれた

別の傷口に目をやった。

 その傷は、間違いなく、

弾丸摘出の痕(あと)であることを、

荻野は見抜いていた。

 荻野は、心でつぶやいた。

 『この若い日本人の身の上に、

いったい何が起こったのか……?

この傷といい、

ラーゲル(収容所)生活といい……。

 この男は、

人間の苦しみを

すべて背負っているかのようだ。……。

 「Щ(シチャ)7」

としか分からぬが、

よほどの重罪を犯したのか、

それとも、不運なのか……。。』

 荻野は、若い医者が

包帯を巻き終わるのを確認して、

手術室から出て行った。

 その日、荻野は、もう一度、

廊下に監視員のいる

「Щ(シチャ)7」の

部屋に行った。

 白いシーツと毛布に包まれ、

安らかに眠る青年の顔を見つめた。

 その青年の顔から、

次から次へと、

自分の過去が回想される。

 この青年も自分と同じような

激動の人生を送ることが予感され、

哀れに思えた。





 病院の車で送ってもらいながら、

彼は自分の悲惨な人生を振り返った。



    (第五章「ドクター荻野の話」)



 帰宅すると、妻のナターシャが、

娘から電話があったことを

告げて、言った。

 「明日、あの娘は家に帰ってくる

そうなの。

やはり、大学を退学せざるを

得ないことになるかもしれない、

と言ってました。

もし、そうなら、あなたから、

教育関係か政府のどなたかに、

口添えしてやって

もらえませんでしょうか?」

 『K・G・B(ソビエト国家保安

委員会)』に

マークされ出した娘の手紙を

思い出しながら、言った。

 「今、その事を考えている。

……なんとかしてやりたい……。

ところで、……。」

   荻野は、話しを替えた。

「今日、病院で、日本人の手術をした。」

 「日本人の・・・?」

 「まだ若い日本人だ。ただし、

ラーゲルから『急性盲腸炎』で

送られて来た囚人だ。

しかも、脇腹には、

まだ真新しい銃弾の傷痕と

オペの痕があった。」

 「まあー、銃弾!

よっぽど悪いことをした人

なのでしょうか?」

 「わからんが、

彼のことが気がかりだ。」

 「日本人に会うのは何年ぶりかしら、

あなたにとって……。」

 「かれこれ、二十年以上になるか……。

君の家に転がり込んで以後だから……。」

 「娘が今度の誕生日で、

二十歳ですから・・・そうですわ。」

 妻のナターシャは、感慨深そうに

過去を振り返ってから、

話しを元に戻した。

 「やはり、娘の事が心配です。

大学入学までスムーズに進んだのに、

ツーリストの仕事を

手伝うことになってから……。」

 「あの娘なら、違った道に進んでも、

やって行ける。

わしは、考えていたんだが……。」

 荻野は、キューバ産の紅茶を

飲んで続けた。

 「ハバロフスク大学の医学部に

受験し直したらどうか、

と思っとる。

あの娘なら、大丈夫だろう、

モスクワ大学を飛び級で

入学したのだから……。

『K・G・B』もモスクワならいざ知らず、

この極東の

ハバロウスクに定住すれば、

文句も言うまい。

それに、わしらも娘と一緒に

生活できるのだから、

願ったり叶(かな)ったりだ。」

 ドクター荻野は夕食後、

これからの人生を考えた。

 もうすぐ定年で、恩給生活に入る。

昔の日本人と同じように、

家族が一緒に生活し、

孫の顔を見ながら、

後の人生を過ごせるなら、

この上もないことだ。

そして、娘が荻野のライフワークである

医学に進むなら、

これほどの幸福はない。

 ベットの中で、老後がバラ色に

なることを望みながら、

眠りについた。

 早朝、

電話のベルで目覚めた。

 日本人の患者が、

苦痛を訴えているという知らせだ。

病院の車を回してもらうことにして、

早々に朝食を済ませて、

病院に向かった。



 頭の中で、

昨日の手術の手順を確認しながら

病室に入ると、

「Щ(シチャ)7」の日本人は、

呻(うめ)きもがいている。

 荻野は、当直の医師に

説明を聴いた後、

忘れかけている日本語を、

頭の中で一度繰り返し、

日本人に言った。

 「私は、ドクター荻野だ。

君の痛む所を教えてほしい。」

 日本人の身体の腹当たりから、

順に押さえながら反応を診た。

下腹部で身体をくねらせ、

弓なりに曲げた。

荻野は、看護婦に手術の用意を伝えた。

 彼は、腹膜炎を併発(へいはつ)

していたのだ。

荻野は、自戒した。

これは、手術の後の縫い方に

関係があったが、

腹部における手術の、

最も初歩的なミスで、

患者を二度苦しめることになる。

 四十数年間の外科医としての誇りが、

一瞬にして消えかけた。

しかし、すぐに消毒液で手を洗い、

手術台に向かった。

 手術は、三十分程で終わり、

日本人は苦痛の顔色から、

やや赤みがかった、

生きている皮膚に戻りかけた。

荻野は、ほっとしてマスクをはずした。

 病院長室に戻り、湯を沸かして、

今度は、キューバ産のコーヒーを

口に入れたが、

何かが、いつもと違っていた。

 早朝に家を出てきたためだろう、

と納得させながら、新聞を開いた。

統制された新聞だが、

どこかに統制前の記事が、

顔を覗かせる時がある。

 今朝の朝刊では、

『ロシアの母(アムール川)』の

中国側数十キロが、

立ち入り禁止になったことが

書かれてあった。

 数行のこの記事で、

荻野はあることを感知した。

 「ロシアの母」の向こう側は

「中華人民共和国」であり、

このところの「文化大革命」が、

モスクワを怒らせていることから、

\: 毛沢東(マオツオトン。

日本読みモウタクトウ。

中華人民共和国の国家主席。)を

痛めつける機会を

狙(ねら)っているらしいことだ。

 しかも、ハバロフスク基地に、

戦車が数千台運び込まれている。

 『近々、中国政府と事が起こる。』

 それが、荻野の直感だ。

 最後のコーヒーを口に入れた時、

電話が鳴った。

交換手が電話を切り替えると、

なつかしい娘の声が、

小さな受話器から聞こえてきた。

 ドクター荻野は、

まるで目の前に娘がいるかのように

笑顔をみせて、

朝の挨拶をした。

が、娘は、

 「空港から家に帰ってきたところだが、

話があるので、

病院に行ってもいいか?」

 と尋ねてきた。

 娘に会いたい一心で、

荻野は躊躇(ちゅうちょ)することなく、

 「ダー。」

 と発していた。

 電話が切れた後、

さっきの胸騒ぎは娘のことだったか、

と考えながら娘を待った。

 病院長といっても、

客用のソファーと机と椅子と

小さな炊事場が

ある程度だったが、

荻野にとっては、

掛け替えのない部屋のように思っている。

 電話のベルが鳴り、交換手が、

娘の来院を告げてきた。

 父親は、椅子から立ち上がり、

ドアーを開けて廊下に出た。

老朽化した壁だが、

異様に光った床を、

娘が軽やかに父親の方に近付いて来た。

 親子は、廊下で抱き合い、

満面の笑みで部屋に入った。

 会うまでは、

話したいことがいっぱいあったが、

会ってみると何から話していいのか

迷っている父親に、

娘は突然言った。

 「日本人の患者さんが、

いるのですか?」

 「エッ……、ああ、

お母さんから聞いたのか?」

 「その人は、何という名前ですの?」

 「名は分からん。

『Щ(シチャ)7』としかね。

昨日、ラーゲルから

『急性盲腸炎』で送られて来た患者で、

今朝、腹膜の手術をした。」

 「その人の脇腹に、

傷はありませんでしたか?」

 「あゝ、あった。銃口による傷で、

十数針の手術の痕が……。」

 「まさか……。」

 「お前は、その患者を知っているのか?」

 娘は、ソファーに座って

話し始めた。

ドクター荻野は、

黙って話を聴き終わると、

彼の何着かの白衣の中から、

やや小さめのものを娘に手渡し、

廊下に出た。

 異様に光る廊下を歩いて、

監視員の立つ、

一番奥の病室に来て、言った。

 「患者を診察するので、

開けてくれたまえ……。」

 監視員は、ドクター荻野の顔を

確認してから、

鍵を開けた。

 二人は、何事もないような振る舞いで

部屋に入った。

 ドアーが閉じられてから、

小柄の白衣が、

点滴注射をしている患者の側に

歩み寄った。

 そして、驚きの声を、

のど元で押し殺した。

 彼女の想像は、間違いなかった。

しかし、患者は深い眠りに入っている。

 二人は、ドアーをノックして、

鍵を外から開けてもらい、

廊下に出た。

 「眠っているので、後でまた来る。」

 と監視員に告げて、

二人は自室に戻った。

 娘は、白衣を脱ぐやいなや、

泣きながら言った。

 「お父さま、あの方は、

日本人の

『栗須(くりす)』さんです。

チェコ動乱に巻き込まれて

収容所に送られたの……。

あの人は、『無実』です。

……あの裁判の時に……、いえ、

白ロシア駅で引き留めていたなら、

こんなことにならなか……。

お父さん、お願いです。

なんとかしてあげてほしい……。」

   父親は、

その若者の名字に

聞き覚えがあった。

 「くりす……栗須……。」

 口に出して言ってみたが、

思い出せない。

どこかで聞いた名だが

思い出せなかった。

「お父様、ご存じで……。」

「いや、どこかで聞いた名だが、

思い出せない。」

「なんとかしてあげ……。」

その時、ある事が閃(ひらめ)き、

娘が泣き止むのを待ってから、

婦長の控え室に電話を回した。

 一分もしない間に、

丈の高い老婦長がやって来た。

 「ディレーナ君、私の娘は

知っているね?」

 「ええ、お久しぶりですわ、

『スベトラナ・光子』さま。

大きくなられて……。」

 婦長は、光子の両頬にキスをして、

離れた。

 「実は、娘が私と同じ道に

進みたいと考え出して、

『ハバロフスク大学』の

『医学部』に受験する気でいる。

『入学試験』までに半年以上ある。

少しだけ私の側に置いて、

病院の内部のことも

理解させておきたいのだが、

何かいい方法はないかね?」

 老婦長は、命令には絶対的だが、

自分の意見が取り入れられた時は、

その十倍も献身的に行動することを、

荻野は知っていた。

 婦長は、少し間をおいて言った。

 「……先生のお側か、

私の側にいらっしゃったら、

ご勉強になると想いますが……。」

 「そうか、君がもし

娘をみてくれるなら、

私はこれ以上の喜びはない。

婦長、君はかまわないかい?

君の助手か見習いとして、

娘を預けても……。」

 「ええ、勿論、光栄です。

お嬢様が医学部に合格するように、

全力をあげて支援いたします。」

 「婦長!!」

 荻野は、両手を大きく広げて、

婦長に感嘆の喜びを表現した。

 婦長は、そのオーバーなしぐさを

娘を愛する父親の喜びと受け取って、

笑顔で返した。

 「じゃ、明日から、

スベトラナ・光子を君に預けよう。

よろしく頼む。」

 荻野は、日本風の礼をした。

婦長も同じ礼をし、

部屋から出て行った。

 荻野は、光子を見て言った。

 「光子、こういうことになった。

君の気持ちを無視したが、

君は、かまわないかい?」

 光子は、涙を流しながら、

父親の胸で泣いた。

 栗須の軍事裁判以後、

光子は『K・G・B』当局から

反逆罪で尋問され、

マークされていたのだが、

それ以上に、

栗須の不運な人生を想う時、

栗須に対する思いが、

大きな『愛』として

沸き上がってくるのだった。


 次の日、

婦長は、光子の病院でのスケジュールを、

細かく書いて光子に手渡した。

婦長は、光子を本当に医学部に入学させる

決意をしていることが、

そのメモを見れば分かった。

 が、一つだけ異なる事が

あるとすれば、

病院長が患者を問診する時だけは、

すべて光子が同行するように、

書かれてあった。

婦長は、

「父親の気持ち」を、

そのスケジュールに入れていた。

光子と荻野は、

婦長に心から感謝した。



 二日後、

栗栖(くりす)は、

日本語を話す病院長と

一緒にいる看護婦が、

あのモスクワのツーリストの

「スベトラナ・光子」で

あることを知って、驚いた。

そして喜んだ。

婦長がいるために私語はなかったが、

光子の目のやさしさで、

彼の心は和んだ。

 三日後、

ドクター荻野は、

一人で栗栖の病室に来て、

あの「白い日本語」で言った。

 「君は、君の今の立場を

理解していると思うし、

私の立場も理解できると思う。

しかし、

私は君に出来る限りの事をしたい。

それは、君が『日本人』であることと、

私の娘が『縁』によって、

君と知り合い、

君を助けたい、

と望んでいるからだ。

君にとって、

一番良好な内容を決めておきたい。

君は、何を望むかね?」

 「……僕は、『ラーゲル』から出たい。

いや、このソ連から出たい。」

 「分かった。君の望みを、

なんとか叶(かな)えよう。

ただ、それには時間が迫っている。

収容所からの入院は、

『十日間』と決められている。

明後日は、その最終日だ。

決行するには明日しかない。

君を明日、収容所から出そう。」

 ドクター荻野は、

「白い日本語」で、

力強く言った。





    2、偽装(ぎそう)





 栗栖(くりす)は、

ドクター荻野から

脱出の具体的な話を聞いて、

心が浮き立った状態で、

ベットに潜っていた。

 光子の脈をとる時の暖かい手と、

やさしい黒い瞳に出会ってから、

自分の人生に、

明るい日差しが

見えてきたように思えた。

 十五年の刑期を考える時、

自分がそれを全(まっと)う出来る

など思えなかった。

あの、氷の中を、十五年間、

労働し続けるのは、

『至難の業(わざ)』である。

このまま収容所に戻らず脱出できるなら……。


 『脱走……』


 ダニーがあれほど望んだ『脱走!』。

 そうだ。もし出来るなら、

ダニーも連れていってやらねば……。

 おお、ダニー!

 彼は、命の恩人だ!!

ロシア語一つも分からなかった自分が、

あの厳寒の中で、

あの重労働に耐えられたのは、

すべて、ダニーがいたからだ。

ダニー無くして、

今の自分は存在するだろうか。

ダニーは命の恩人なのだ。

そのダニーをラーゲルに

残したままで、

自分だけ『脱出』する、

それは、許されないことだ。

 『ダニーも一緒に……。

なんとかせねば……。』

 栗栖は、悩みながら眠った。




 次の日の早朝。

 ドクター荻野は、

決行するための準備に入った。

 病院内の職員に、

迷惑は掛けられない。

娘と自分だけで、

この件は実行せねばならぬ。

特に婦長には、

迷惑はかけられないし、

知られてもならない。

 この日が、

婦長の休日である事を確認し、

荻野は白衣の娘をつれて、

監視員の立つ部屋に入って行った。

 栗栖は、ベットの上から、

笑顔で二人を迎えた。

 光子は、栗栖に

すがり付きたい気持ちを抑えて、

父の横にいた。

 荻野は、栗栖の二つの手術痕を診た。

二つともほぼ傷口が塞がっていた。

 荻野は、ポケットから、

一つの薬袋を取り出した。

 「君は、今から一時間後に、

この薬を飲んでほしい。

この薬は、

『プッリーヨチェ』といって、

このソビエトにしかない薬だ。

北極圏のエスキモーが、

北極にいるオットセイの胃袋にある、

『海草』だけを取り出して作られた

『妙薬』だ。

北極の氷の中に

何万年も眠っていた

『海草』だ。」

 袋の中から、

『黒い粒』を取り出して、続けた。

 「『効能』は、いくつもある。

飲むと、人間の『体温を低下』させ、

『仮死状態』にすることが出来るし、

量によっては、

『心臓発作』も起こせる。

『凍傷』に罹(かか)った時には、

その部分に塗れば、

逆に皮膚に『血液が流れ出す』。

酷寒で生活する彼らにとっては、

必需品だ。」

 荻野は、『黒い粒』を小さな瓶に

入れながら言った。

 「政府は、この妙薬を『十グラム』で、

『一年間の納税』に代替としている。

一頭から〇・五グラムも採れないから、

大変なことだ。

……実は……。」

 荻野は、間を於いて話し続けた。

 「……私は、この『妙薬』を

十数年前に、

エスキモーのアラタ族を

診療した時に知って、

モスクワで発表した。

『K・G・B』が

自分たちの活動のために

使用しているらしい。

たとえば、

目的の人物を『誘拐』する時に、

仮死状態で運ぶとか……。」

 また、間を於いて続けた。

 「まあ、それは別として、

この妙薬だけならすぐに見透かされる。

が、私は、これ以外に

別の妙薬をいくつか持っている。

君は、これらの薬で

『収容所生活』から解放されるだろう。

ただし、それには、

ちょっとやっかいな

『芝居』をせねばならないが……。」

 「芝居?」

 「そう、君は寝たままでいいが、

私と娘は芝居をする。

……君の『仮死状態』の遺体を、

収容所には渡したくないからね。」

 「分かりました。

あなたを信頼しています。」

 栗須は、荻野から薬を受け取り、

光子を見詰めた。

光子は、微笑を絶やさずに、

栗須のその手の上から、

自分の手をやさしく覆った。

 自室に戻ったドクター荻野は、

ラーゲルの所長に電話を入れた。

 「所長ですか・・・、

いや、ご無沙汰しております。

ハバロフスク病院長の荻野です。

……お陰様で……。

ところで『Щ(シチャ)7』ですが、

そちらに帰っても

大丈夫だと思いますので、

今日にでも迎えに……。

ええ……。そうそう所長、

礼の上等の『熱薬』と

『薬丸』が手に入っております。

なんなら、所長ご自身もこちらへ……。

警備の方の昼食も用意を……。

いえいえ、どうぞどうぞ……。

ハイ、お待ちしております。」

 電話を切って、第一段階の終了を、

光子に目で合図した。





 昼前、所長じきじきの専用車が、

護送トラックをひき連れて

病院に到着した。

 病院長以下数名が、

厳寒の吹き荒れる玄関で迎え入れ、

特別室に案内した。

 所長は、毛皮のコートを脱いで、

テーブルの上の瓶を手にした。

金色で書かれた五つ星の

『ウオッカ』は、

最高のものであることを示していた。

 「病院長、これはまた、

すばらしい『熱薬』が

手に入ったことで……。」

 「クレムリン内の診療所長が、

贈ってくれたもので、

私の教え子ですがね。

手紙によると、クレムリン外では、

手に入らない代物らしいですね。

前回のウズベク物より、

数段値打ちがあるそうです。」

「すばらしい教え子を持たれたですな、

病院長!ああ、うらやましい。

それにしても、

クレムリンの連中は、

毎日、こいつを飲んでいるのですかね?」

 「そうらしいですね。」

 「わしも、この極東の

ラーゲル所長なんぞで満足せず、

党の地区代表になって、

クレムリンに入りたいものだ。」

 「その時は、応援しますよ、所長。」

 「ありがとう。それよりあなたの方が、

党員になりさえすれば、

知名度が高いのだし、

クレムリンに入れるでしょう。」

 「いや、私はもうすぐ

定年を向かえる人間でして……、

その気になかなかなれず……。」

 荻野は、グラスをテーブルに置いて、

ウオッカを注いだ。

その透明の液を、

所長は一気に口の中に流し込んだ。

目と唇を閉じたまま、

口の中を膨らませ、

その強烈な刺激を

十二分に味わうように飲んだ。

 「……ああ、旨い……。

この味は、やはり最高だ……。」

 荻野は、二杯目をグラスに注いだ。

所長は、今度はその半分を飲んで、

また、唸り声をあげた。

 「ああ、なんと旨いんだ、こいつは……。

身体中に染み渡り、もう熱くしている。」

 所長は、ご満悦になって、

首のホックをはずした。

 荻野は、テーブルの上の

ナフキンを持ち上げた。

中から、皿いっぱいに盛り上げた

『キャビア』が、

黒光りしたダイヤモンドの山のように

現れた。

 所長はまた、唸り声を上げて、

フオークですくい上げて

口に流し込んだ。

歯で噛み砕かれた時に放つ、

凄まじい香りが、

所長を最大限に満足させた。

 「これは、上等だ。

あなたの人脈を

手に入れたいものですな、

この『薬丸』が入るなら……。」

 また、ウオッカを口に入れた。

 何度かそれを繰り返すうちに、

アルコールに強い所長の目が、

半開きになって来た。

 その時、ドアーがノックされ、

看護婦が慌てて入って来た。

スベトラナ・光子である。

 「失礼します。院長、

別館一号室の看護室連絡ベルが

押されており、

『異常』が……。」

 「分かった!」

 院長は、所長に向かって言った。

 「所長、『Щ(シチャ)7』です。」

 眠りかけていた所長は、

ソファーから飛び上がり、

荻野の後に続いて部屋を飛び出した。

監視員が、所長を見て敬礼し、

すぐにドアーを開けた。

 殺風景な病室の真ん中に

置かれたベットの上で、

病人は身体を痙攣(けいれん)させ、

ベットがガタガタ音をたてていた。

荻野は、病人の胸に

聴診器をあて脈数を確認し、

看護婦に鎮静剤を

もってくるように言いかけて、

手術室に病人を運ぶように命じた。

 「所長、『Щ(シチャ)7』は、

『心臓発作』を起こしているらしい。

手術室に連れて行きます。」

 「わしも行く!」

 赤ら顔の所長が言った。

 監視員も手伝って、

ベットは手術室に運ばれた。

看護婦は、すばやく病人の衣服をはずし、

奥の部屋から、

手術道具が乗せられた手車を

ベットの横に置き、

ライトを点けた。

 その間、荻野は聴診器を胸にあて、

心臓マッサージを行い、

鎮静剤を打った。

そして、マスクの下から、

所長に言った。

 「所長、『Щ(シチャ)7』

の手術をします。

発作性頻脈(ひんみゃく)です。

手術せねば、今、死にます。」

 「院長、『Щ(シチャ)7』は、

明日で出所期限が切れる。

手術して、もし助かったとしても

明日は、ラーゲルだ。

同じように死ぬ。」

 「分かっています。

しかし、この病院にいる限り、

医者として見殺しはできません。」

 「分かった。君に任せる。」

 院長は、看護婦が差し出す、

ゴム手袋をはめた。

患者の痙攣(けいれん)は治まったが、

院長は右手にメスを持ち、

看護婦が左胸を消毒するのを待った。

 「院長、わしゃ、部屋で待っとる、

結果を知らせてくれたまえ……。」

 所長は、背を向けて

手術室から出て行きかけ、

もう一度振り向くと、

メスが『Щ(シチャ)7』の胸に

当てられる所だったので、

すぐにドアーを閉めた。

 所長は、部屋に帰って

五つ星のウオッカを、

いっきに飲み干して思った。

 『どうもいかん。

あれだけは見るに耐えん。

収容所で、死体をいっぱい見とるが

生きた人間を切るのだけは、

どうも見とられん。

院長も、わしがにが手なことを

知っていて、見せようする。』

 キャビアを口に入れ、

ウオッカを二杯飲みほして、

ソファにもたれて目を閉じた。






 目覚めたのは、

院長の声でだった。

 「所長……残念ですが、

『Щ(シチャ)7』は死にました。

ご一緒に手術室へ。」

 院長の後から、やや千鳥足で

手術室に入った所長の目の前で、

院長は、遺体を覆っていた布の

顔の部分をめくり上げた。

 そこには、青ざめた

『Щ(シチャ)7』が

間違いなく横たわっていた。

胸の手術の赤い血が、

まだこびり付いているあたりまで、

捲くりあげた時、

所長は目を背けた。

 「遺体を連れて、

いや持って帰るから

支度してくれたまえ。」

 「かしこまりました。」

 院長は、看護婦に合図を送った。

看護婦は、奥の部屋に

遺体のベットを押して行った。

院長が所長のファイルに

書き込んでいる。

 ベットが戻って来たときには、

シーツに包まれた遺体と、

ラーゲル内で使用していた衣服が

乗せられていた。

 看護婦が、ドアーの方に

進みかけた時、

突然、所長は静止を命じた。

そして内ポッケトに手を入れた。

 委員長と看護婦は、目を合わせ、

そして、青ざめた。

 所長は、内ポケットから、

また、もそもそと、

白いファイルを出して言った。

 「院長、悪いが……、

このファイルを見ると、

彼は無国籍で、

身よりもないらしい。

なんなら、

君の『研究』に

使ってくれてもいいが……。」

 院長は、ほっとしたように言った。

 「ええ、それはかたじけない。

最近は、そういう遺体は

少なくなっておりましたので……、

病院も大助かりです。

インターンに練習させられます。」

 「じゃ、君のサインを

ここにもしたまえ。

後は、わしが書類を書いておこう。」

 院長は、所長のファイルにサインして、

看護婦に遺体を

ホルマリン室に運ぶように命じ、

所長に、

『Щ(シチャ)7』の『服』を手渡した。

 「所長には、いつもお世話になって……。」

 「いやいや、わしの方が

世話になりっぱなしで……。」

 「上で飲み直しますか……。」

 「いいですね。」

 そこまで話しながら、

ドアーが閉じられた。

 看護婦は急いで、

遺体用のシーツと、

もう一枚のシーツを遺体からはずした。

ホルマリンの匂いが鼻に付いた。

 遺体は、

『Щ(シチャ)7』ではなかった。

看護婦は、その別人の遺体に

シーツを被せ、

移動用ベットを押して

部屋から出た。

そして、エレベーターで、

地下の遺体が

元いた場所のプールに滑らせた。

 遺体によって

かき混ぜられたホルマリンは、

鼻を突き、目から涙が出てきた。

まるで、最大の幸福が、

彼女に訪れてきたように、だった。

 身代わりの遺体に

両手をあわせて祈り、

すぐに手術室に戻った。

 が、掛けたはずの手術室の鍵が、

開いていた。

 一瞬、所長に、

この計画が悟られたのでは……と考えた。

が、そのまま何食わぬ顔で中に入った。

中は、誰もいなかった。

手術用ベットとライトセット、それに、

置き忘れられた手術道具類が

真ん中にあるだけだった。

 看護婦の目は、

奥の部屋に注がれた。

冷や汗が流れた。

静かに奥の部屋に進み、

ドアーの取っ手を回した。

 だが、彼女の想像は、

一瞬にして消えた。

目に見えたものは、

副院長と副看護婦長の二人が

抱き合っているところだった。

 「おお、ごめんなさい……。」

 「いや、こちらこそ……。」

 二人は、大急ぎで衣服を整えて、

奥の部屋から出てきた。

 「お嬢様、あの……

このことは病院長には、

くれぐれも内蜜に……。」

 「お嬢様、あの……

このことは看護婦長のは、

くれぐれも内密に……。」

 「ごめんなさい、こちらこそ、

お許し下さい。

何も知らなかったもので……、

すべては見なかったことですので……。」

 二人は、そそくさと

部屋を出掛かった時、

看護婦が声を出した。

 「副院長様!」

 副院長は、青ざめた顔を

こちらに向けた。

 「今日と明日、

病院の車を私に貸して下さいます?

ちょっと、運びたいものが

ありまして……。」

 「ええ、いいですとも、

すぐに許可を事務に提出しておきます。

それでは……。」

 副院長は、ドアーを音を

立てずに閉めた。

 看護婦は、急いで奥の部屋に入った。

部屋の初めのベットは乱れていたが、

奥の方の壁にそって置かれた、

真新しいシーツが掛かったベットは

そのままだった。

 光子は、そのベットに近づいた。

そのシーツの中は動かなかった。

光子は、静かにそして優しく

シーツを引き上げた。

遺体は、じっとしている。

 胸の血の塊をきれいに拭き、

父からの命令通りに注射し、

手術用ライトを遺体に近付け、

温めて行った。

遺体の体温が上昇するごとに、

遺体の筋肉が動きだした。

 光子は、その遺体にキスし、

身体に愛撫していった。

遺体は、徐々人間にもどり、

栗栖に戻ってきた。

 光子が呟いた。

 「栗栖さん、ごめんなさい。

あなたをこんなに苦しめて……。」

 光子は、栗栖の側を離れず、

身体を温め続けた。





 特別室では、

院長と所長がグラスを傾けながら、

昼食を取っていた。

テーブルに並べられた

『ロシア料理』は、

特別に注文されたもので、

ロースのケチャップ煮・

レタスとニンジンのレモン漬けなど、

十品の料理が並べられていた。

 「ラーゲルのコックには、

この料理は作れませんよ、院長……。

どれをとってもいい味だ。」

 所長は、またウオッカを注いだ。

 「……ところで、院長、

これはまだ内密の話だが……、

近々あなたに、

ラーゲルに来て頂く、

ことになるかもしれませんね。」

 院長は、所長の今の言葉で、

心臓の鼓動が早まるのを意識した。

グラスのウオッカを、

一気に喉元に流し込んだ。

焼けるような熱が、

身体中を走った。

 ……まさか、

あの『偽装(ぎそう)』が

バレタのではないか……。

 荻野の頭の中を、

何重にも回転した。

そして、咳をしながら言った。

 「と申しますと……?」

 「『モスクワ』から連絡があって、

……『囚人』を緊急召集することが、

決定された。」

 「『囚人』を緊急召集……?」

 「『モスクワ』も、今度はいよいよ

『毛沢東(マオツオトン)』を

やるつもりらしい。

『チェコ・スロバキア』は

一応片付けたので、

今後は『北京』を

なんとかしようと考えだした。

『モスクワ』の目の上の

瘤(こぶ)は『北京』ですからね。

『モスクワ』の反抗ばかりしている。

『国境』の問題もそうだが、

『文化大革命』も、

『モスクワ』を『敵』と位置付けている。」

 一口飲んで続けた。

 「無論、『モスクワ』にも責任がある。

『北京』政府の設立の時、

手を貸さなかったのだからね。

『毛沢東(マオツオトン)』が、

せっかく挨拶に来たのに、

『モスクワ』は玄関払いしたのだから……。」

 所長は、声を潜めて続けた。

 「『毛沢東(マオツオトン)』以外の

キューバの『カストロ』・

『チェ・ゲバラ』や

北朝鮮の『金正日(キム・ジョンイル)』に、

リビアの『カダフィー』……等とは

謁見(えっけん)しているのに、

彼とだけは会ってない。

『スターリン

(1953年まで党第一書記)』は、

農民出身者を嫌っていたらしい。

腹の底が理解できないのかもしれん。」

 コップの残りウオッカを飲みほして、

院長に注いで貰いながら、言った。

 「そうそう、うちの囚人にも

召集が来ましてね。

ただし、召集するには

『健診』がいる。

形だけのものだが、

やっておかないとねえ……。

病気持ちによって、

兵士全員にうつされては

堪(たま)らんからな。

それで……。」

 また一口飲んで続けた。

 「……それで、

あなたの病院の医者に

診てもらうことになる。

近々『軍部』から

正式に依頼がありますよ。

第二次世界大戦の時と同じように……。」

 荻野は、ほっとしたと同時に、

二十数年前の『大連(たいれん)』での

殺人の状況が思い浮かんだ。

自分の銃によって、

死んでいったあの兵も

やはり『囚人』だったのか……。

 「『モスクワ』は、

『事を起こす』前には、

大量の囚人を確保する。

理由なしに『逮捕』していく。

……今日の囚人もそれかな。

そして、囚人を戦場に送る。

囚人は、自分が生きるために何でもする。

中には、自分の命を惜しまずに、

敵を殺し、女をおかし、

貴金属を持って帰ってくる。

その手柄によっては、

娑婆(しゃば)に戻れる。

ただし、手柄のない者は、

また収容所に戻らされる。」





   その日の夕方、

千鳥足の所長を乗せた乗用車と、

満腹の護送兵のトラックが、

厳寒の中を走りだした。

 病院の院長室には、

ドクター荻野と娘のスベトラナ・光子と、

ソファーで横になっている栗栖がいた。

 栗栖は『ダニー』について話していた。

自分と同じ無実の罪で逮捕され、

『ラーゲル』に入れられていること。

彼も『脱出』させてやりたいこと、

などを熱心に語った。

 ドクター荻野は、

腕組みをしながら、

眉間(みけん)に皺を寄せて

考えていた。

 「一つの案が浮かんだ。

まだ、はっきりは言えないが……。」

 荻野の頭の中に、

第二の『偽装』が閃(ひらめ)き始めた。





 千鳥足の車が出てから一時間後、

病院のマークの入った車が、

光子と栗栖を乗せ、

ドクター荻野が運転して、

ゆっくり走り出した。

 が、その後を、

病院の駐車場に止めてあった

『黒塗りの車』が、

黒いコートに黒いサングラスをかけた

二人組の男を乗せて、

病院のマークの入った車を

『尾行追跡』しだした。





 『冬将軍』が、強烈な音を立てて、

襲い掛かって来た。



       『第九章 ダイヤモンドダストの瞬(またた)き』に続く

 

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第一章   白夜のささやき

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第二章   カットグラスの輝き

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第三章   裁き

        (公開中)

第四章   轟(とどろ)き・・・

(ダニーの話)

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第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

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第六章   殺人の痕跡・・・

(ドクター荻野の話)

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第七章   「アッシュ」の手引き・・・

(ビルの話)

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第八章   偽装の閃(ひらめ)き

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第九章ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

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第十章   若き紅衛兵の嘆き

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第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

(五人めの妻の話)

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第十二章ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

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第十三章  飛べ!低く飛べ!

(チェ・ゲバラの話)

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第十四章  リビアンスター

(リビアの星)

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