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パープル ・ サンフラワー(小説)

マルタン丸山

第五章  ラーゲルの吹雪(ふぶき)

 



   1 外人部隊





 「ドバイ、ダボータ

(さあ、仕事だ)!」

 この言葉からラーゲル(収容所)の

一日が始まる。

 ウラル山脈を越えてから三日間

走り続けた囚人列車は、

シベリアの、アムール川の

ラーゲルに栗須たちを投げ入れた。

 ラーゲルは、

二重の金網で囲まれた木造で、

一棟三十室(一室二十五人収容)が三つ、

管理棟が一つで構成されていた。

 彼らには、列車の到着の翌日から、

規則正しい生活(?)が待っていた。

 起床四時三十分。五時に朝食。

 労働は、八時から始まり

夕方の十七時まで続けられる。

 昼食は、十八時。

 一時間おいて、十九時三十分に夕食。 

 二十一時に消灯。

 これが彼らの一日の予定表だった。

 これは、後に「ノーベル文学賞」を

受賞したソルジェニーツィーンが、

『収容所列島』に投獄された昔から、

変わらない。

 この単調な予定表は、

栗須たちが入所して、

一週間後の最初の積雪によって、

『死』と隣り合わせの

スケジュールと化した。

 初雪に、摂氏ゼロだった気温が、

毎日一度ずつ下がり、

十一月初旬には、

零下三十度になっていた。

本格的な冬将軍が到来する前にである。

この厳寒は、人間が室外で呼吸すれば、

息がすべて髭・眉・毛に、

一瞬にして真っ白に凍り付く温度だ。

この厳寒に勝つためには、

支給された衣類を、

ひたすら着ること。

 無論、暖房などどこにもなく、

あるとすれば管理棟だが、

その暖房に、囚人たちは一度も恩恵を

与えられたことは、ない。

 囚人が暖をとることが出来るのは、

ただ一つの食堂である。

 ただし、厨房(ちゅうぼう)と

食堂の壁に一カ所だけ、

皿を出し入れする三十センチ四方の

『穴』だけだ。

そこだけ、囚人の骨の髄(ずい)まで

染み込む、麗(うるわ)しいスープの

香りと共に押し寄せる熱風だ。

 だが、しかし、これも、

早く食堂に行ってのことで、

最終班に行こうものなら、

冷風と冷めたスープが待っているだけだ。

 『食堂に、一番で行くこと。』

 これが、このラーゲルの囚人全員の

望みであり、喜びだった。


 栗須は、腹時計で、

四時二十分を確認しながら、

着ぶくれした赤毛のダニーの脇腹を、

二重にはめた分厚い手袋の

人差し指で押した。

 (この時には、あの特徴的な赤毛は、

バリカンによって刈り取られていた。)

 『Я(ヤー)85』と、

防寒コートの左脇に白ペンキで

書かれたダニーは、

ゆっくり寝返りをうって起きあがった。

 「ドバイ・ダボータ!

(さあ、仕事だ!)」

 ダニーが叫ぶと、

この部屋の二十五人の囚人は、

パイプベットからふくれ上がった

緩慢(かんまん)胴体を起こした。

 二段ベットは、幅一メートルで

底は二枚の板が置かれ、

その上に木屑(きくず)入りマットと

毛布が一枚の、

大人が厳寒に耐えられる

ぎりぎりのものだった。

 五時の朝食の前にやるべき仕事とは、

二十五人の食事を確保することだ。

 大股に歩ける『バルト三国』

(エストニア・ラトビア・リトアニア)

の三人が、部屋を飛び出し、

走ることが禁止されている真っ暗な

廊下を歩いて、食堂の前に並ぶ。

 彼らは、色白で、大きな目をしていて、

三人とも背が高く、痩せていて、

それに足が長かった。

 『中央アジア五共和国』

(ウズベク・カザフ・キルギス・

トルクメン・タジク)と、

ザカフカス・アゼルバイジャン・

アルメニア)が、

食堂の横のパン配給所で、

一人五百五十グラムと法律で決められた

黒パンを、班人数貰う。

 彼ら宗派は異なるが、

全員イスラム教徒で、彫りの深い目と、

浅黒い肌と縮れたあご髭が共通しており、

誰もが不思議に手のひらが大きかった。

 他の囚人たち(グルジア・カザフ・

ブリヤート・ウクライナ・ベラルーシ・

モンゴル、それにフランス人のダニーと

日本人の栗須)は、

点呼の時の室内検査のための部屋を、

掃除しておくのである。

 この部屋の二十五人は、要するに、

ソ連にいながらソ連人でなく、

ロシア人でもないと主張する人々で、

他の班からは、

『外人部隊』と呼ばれていた。




 五時十五分前。

ロシア語が堪能(たんのう)であるため、

班長に指名されたダニー以下

二十五人の『外人部隊』は、

五百五十グラムの黒パンを片手に、

食堂の前に集合する。

 食堂に最初に並んだ『バルト三国』の

一人『ラトビア人』(名は、セルゲイ。

二十三歳。ラトビア平等党の若き指導者

であったが、公衆に「ラトビア独立」を

叫び逮捕され、七年の刑。)が、

白い肌の頬だけ誠実そうに紅潮させて、

言った。

 「班長、今日は『ピエールヴィ

(食堂に最初に入れるグループ)』だった」

 「ごくろうさん!」

 ダニーが、軽く頷(うなず)く。

 五時の朝食ベルがなる前には、

この食堂前の階段の踊り場から

囚人棟側の廊下は、

ぎっしりと人で埋まり、

身動きできなくなっている。

 扉が開くと「外人部隊」は、

厨房(ちゅうぼう)に近く、しかも、

人で押し合う入り口から遠い一等席の

テーブルに一目散に進み、

二十五人の席を確保した。

 食堂は、八グループ(二百人)が

ようやく座れる程度のものだったため、

もし、最後のグループ(全部で九十

グループ)ならば、七時の点呼ぎりぎりに

なってしまい、食べることなく出発せねば

ならないこともある。

 ウズベク人(名は、コンザス。二十七歳。

敬虔(けいけん)なイスラム信者。

マドラサ『イスラム神学校』の教師で

あった。メッカ巡礼に向かう途中、

無許可移動の理由で逮捕され、

五年の刑。)が、

黒パンを置くプラスチックの皿を、

まるで輪投げでもするように

回転させて並べる。

 中央アジアのグループが、

厨房窓に行く。

太った炊事長に班名と人数を報告し、

コックからパラウダー(野菜汁)と

カーシャ(かゆ)を人数分貰って

テーブルに戻る。

 この時の彼らは真剣そのもので、

湯気のあがる浅い皿に入ったパラウダーと

カーシャは、一滴もこぼさないように、

しかも数人分を運ぶため、

長靴をすり足で進む。

 だが彼らは、全員が椅子に座るのに、

三分とかからずにやってのける。

ダニーの合図で食事が始まった。

キリスト教の信心深いグルジアの

アルメニア人(名は、カルロス。三十歳。

モスクワ大学で、経済学を専攻し、

『資本主義経済とマルクス・レーニン

経済における、その相違性と自由主義に

おけるマクロ及びミクロ経済学の優位性』

を論文に発表後、逮捕され、

十三年の刑。)は、手袋をはずし、

アルメニア語で聖書の一部を唱え、

十字を切ってから、痩せこけた唇に

黒パンを運んだ。

 栗須は、分厚い手袋をはずし、

パラウダー(野菜汁)の入った温もりの

ある容器を両手で包んだ。

 温もりが、指と掌から腕・心臓へと

伝わるのが、感じられた。

 匂いを嗅ぐと、ほんの少しだけ、

キャベツの匂いがする。



容器を少しだけ持ち上げ、

唇から舌の上、喉へとスープを入れる。

熱い喜びが流れ、

それが空っぽの胃の内部に染みる。

容器をテーブルに置き、

木製のスプーンを目立たないように

しながら取り出し、容器の中をまぜた。

 同じ班の モンゴル人(名は、グオル。

二十歳。理由なく逮捕さる。無期刑。

グオルは、手先が器用で、 

小さなガラス片を使って器用に削り、

日用必需品を作り出しており、

栗須も支給された煙草五本と木製スプーン

を取り替えた。)の方を見た。

 やや目尻が吊り上がった精悍

(せいかん)な顔立ちの彼も、

自前の木製スプーンで食べている。

パウダーの中から、

何かを見つけたらしく、

その二~三ミリの白い塊をスプーンで

すくい上げ、子供っぽさが残る笑みを

浮かべて口に入れる。

 栗須もスプーンでパウダーをまぜる。

 野菜汁の中には、キャベツと塩漬けの

人参とマガラャガイモと魚が入っている

はずである。

 ラーゲルに来て、

一日としてこの献立は変わらなかった。

が、一日として、それらの塊と出会った

ことはない。

ラーゲルの囚人の話をつなぎ合わせると、

それらの献立が入っていることに

なるのだが……。

 濁りきった塩味だけのスープには、

何のかけらもスプーンにはあたらなかった。

 カーシャ(かゆ)に両手を移した。

この粥(かゆ)には米粒が入っている

はずだが、米を洗った後の白い汁だけで

しかなかった。

 その粥を一口飲んで、黒パンを割り、

片方を防寒コートの内ポケットに入れた。

労働の途中、たまらない寒さが全身を

包んだ時、その固くなった黒パンを

かじることによって、

エネルギーが出てくることを、

モンゴル人のグオルから教わった。

 片方の黒パンを口の中に入れる。

 この収容所に来て、

黒パンの消毒の味が、いつの間にか

香ばしい美味しさを感じられるように

なった。「労働のパン」、それが黒パン

であることを、身体で感じている。

 また、最初のパウダーにもどり、

口の中に流し込んで容器の底を見た時、

五ミリ程の塊を見つけた。


 「魚の骨!?」


 その発見は、「金やダイヤモンド」の

発見に等しく、残り少ない汁と一緒に、

口の中に流し込み、目を閉じて、

舌の上でじっくり味わった。



 栗須は、子供の頃を回想した。



 正月にお頭付きの鯛(たい)の

塩焼きを前にして、父親は家族に

鯛の身を分配し、最後に、

頭の部分を自分の皿に置く。

 まず、頬の身、頭の上の身、

ゼラチンの目玉をしゃぶり、

最後にヒレの部分を骨ごと口の中に

入れる。そして、今、

栗須が舌の上で味わうようにあごを

動かしながら、あるものを取り出す。

 「鯛のタイ…」

 そう言って骨を取り出す。

鯛の形に似た、目の穴まである

その骨を、家族に見せるのだ。

子供の栗須も片方のヒレを口の中に入れ、

その鯛のタイを取り出そうとする。

だが、いつも「鯛のタイ」は、

頭の部分が折れてしまう。



 「よし、今度は、うまくやるぞ!」



 そう思った時、突然、

背中を押されて、目を開いた。

 彼の背後には、ぎっしりと囚人たちが

待機していた。

 このラーゲルに来て、彼は一度も

夢を見ていなかったので、

この時が、久しぶりの回想だったのだが、

その回想が終わらぬ内に、

現実に引き戻されたのだ。

 『朝食は、味わうものではなく、

その日の労働のエネルギー源で

しかない。』

それが、ラーゲルの掟(おきて)だった。

 ダニーが栗須を見ながら、

番号で呼んだ。

 「Щ(シチャ)7!

ミェニャ・ウ・クルウージツア・

ガラヴー

(体調が悪いのか)?」

 「ニェット、パラジーチェ……」

 手でなんでもないことを告げ、

周りを見た。

班全員が食事を終えていた。

栗須は、大急ぎでカーシャを飲み込んだ。

さっきの骨はもう溶けて、

口の中のどこにもなかった。



 長々とした朝食風景だが、

彼らは、ラーゲルに来て、

『食べるために生きている』のだ。



 椅子から立ち上がり、

人混みの中を出た時、ダニーに、

「食事が遅れた事」を片言のロシア語で

謝った。

 ラーゲル内では、囚人は番号で呼び、

ロシア語以外は禁止になっている。

そのために、栗須はロシア語を学んでいた。

 ダニーに教えてもらった、

ロシア語の「マスター法ナンバーワン」

の言葉、

 『ア・エト・カーク・パロスキー

(これはロシア語で何と言いますか)?』

 を、連発して、一つ一つの単語を

覚えていったのだ。

無論、文法など関係ない。

 部屋に付くと、「外人部隊」全員が

ベットの上に身体を休めた。

外に一歩出ると、

マイナス三十度の厳寒の中の労働が

待っている。





   2 ユビリューイ(記念日)



七時に班長のダニーが、

その日の労働内容を聴いて帰って来た時、

時計係の栗須は(栗須は、どういうわけか、

決められた時間より早く起きる癖

(くせ)というか、腹時計によって、

みんなから信頼されていた。)、

みんなを起こし廊下に整列させていた。

 看守が部屋に入って、不必要なものが

持ち込まれていないか検査し、

廊下に出て来た時、

いよいよマイナス三十度の世界に向かって

出発である。



 五列縦隊で二十五人が整列し、

棟の外に出ると、

凍てつく空気が身体の芯まで

押し寄せてきた。

 足踏みを続けながら、

第一関門の監視員が一列ずつ数を読み、

五列目で「進め」の合図がでる。

第二関門でまた同じことを繰り返され、

ようやく金網のそとに出るのだ。

 ラーゲル前の凍り付いた道を、

グループことに歩きだした。

 革靴に古いタイヤを巻き付け、

三枚の靴下とゲートルを巻き付けているが、

冷え切って足の感覚はなかった。

下着二枚、ズボン下二枚、

縦じまの囚人服、作業着、

その上に分厚い防寒コートを着て、

二倍にふくれた身体に容赦なく

冷気が忍び込み、突き刺した。

 隊列は、自動小銃をもった護送兵と、

歯をむいた数匹の灰色のエスキモー犬と、

三十分間歩き続けて、

ようやく作業現場にたどりついた。

 先にトラックで運ばれたスコップ・

シャベル・オノ……が各自に分配され、

それぞれの作業場に進んだ。

道具はどれも取っ手が太い。

頑丈だが、片手で持てない。

しかし、ソ連は、規格のサイズしか

作らない。

人間が規格品にあわせる。

 「外人部隊」に与えられた作業場は、

昨日と同じ水道管を設置するための

穴掘りだった。

 地表より1mまで凍り付いているため、

二メートル掘る。

そして横に六日間堀り、

今週の「ノルマ(労働基準量。

「ノルマ」は、もともとロシア語だが、

資本主義の経営者によって全世界に

広まった。)」だった。

「ノルマ」は、必ず達成されなければ

ならない。

達成されない時は、ラーゲルに帰るのが、

遅れる。

すると、食事も一番最後の残り物になり、

冷え切った物しかない。

これも、ラーゲルの掟(おきて)だ。

 八時の作業開始の笛と共に、

全員が動き始める。

静止していると、手足が凍傷にかかる。

動いている方が、感覚のない手足だが、

まだ少しの温もりがあった。

 栗須が、両手でスコップを持ち、

最初の一撃を加える。

土と氷の塊が、三センチ程飛び散る。

二回目も三センチ。

一平方メートル掘るのに、

三時間打ち続けた。

ふとダニーを見ると、腰まで沈んでいる。

ダニーは、ますます、筋肉と体力を

付けてきた。



 十二時が過ぎた。

自動小銃の監視員は、

どこかに休憩に行ったらしい。

 囚人たちは、穴の中に腰を降ろした。

寒風の時は、穴の中は天国だ。

が、眠ると、凍死して墓穴となる。

 栗須は、ダニーの穴に移った。

1m程凍った土は掘られ、

土だけの部分になっている。

土だけなら、後一時間で堀上がる。

 ダニーは、内ポケットから、

支給された煙草とマッチを取り出して

火をつけ、息と同じ煙をはいて言った。

 「俺は、そのうちにこの生活から、

抜け出すよ……」

 栗須と二人の時は、ダニーは、

英語を使った。

 「この昼の監視員のいない時に……」

 「脱走……。しかし、この厳寒では、

凍死する。」

 「分かってる。しかし、

護送列車から脱走した二人の姿が、

目に焼け付いて離れない。

この場所で何年も居ることは、

出来ない。」

 「君は一年だけだ。」

 「いや、И(イー)8番の

マンスノバじいさんは、一年の刑だった。

その刑期はすでに八年前に終わっている。

が、当局からは、何の連絡もない。

監督庁に掛け合っても、梨のつぶてだ」

 「そんな!十五年の刑期のぼくなら……」

 「一年も、十五年も、同じだ。

この国の政権が変わらない限り、

ラーゲルから出られないんだ。

だから、俺は、自分で出る。」

 ダニーは、吸い差しの煙草を、

栗須に渡そうとしたが、

栗須は断ったので、一つ後の、

マンスノバじいさんの穴に投げ入れた。

 「グラーチェ(ありがとう)」

 と、中からかすれ声がした。

 「わしゃ泣きたいよ。」 



 マンスノバじいさん

(アゼルバイジャン人。

四十二歳。一見七十歳以上の老人の

ように見える。シルクロードの

オアシス都市バークで、

ジュウタン織りの工場長を

務めていたが、突然逮捕され、

一年の刑。)は、

いつもの口癖のことばを

返してきた。

 この時、ダニーの腹が、

空腹感を訴えた。

栗須は、にやりと笑って、

内ポケットから黒パンを取り出した。

スコップの角で凍りかけたそれを

半分に割って、

ダニーに渡した。

 口の中でじっくり溶かし、

舌で和らげていく。

昼食の五時半まで、後四時間半もある。

十二時過ぎから二時過ぎまでの

空腹状態は、耐えられない。

周りのすべてが、食べ物に見えてくる。

しかし、それが過ぎると、空腹を通り越し、

なんともなくなる。

その二時間を、彼らは、

『地獄の扉』と呼んでいた。

 どこからか、監視員が来た合図が

聞こえた。

スコップを氷に打ち付ける音である。

栗須は、すばやく自分の穴に帰り、

スコップで掘り出した。

 『俺は、この生活から、抜け出す。』

 栗須の頭の中に、

ダニーの言葉が、何度も繰り返された。

 スコップが氷にあたるリズムが、

ダニーの言葉と合体し、

彼自身の身体の隅々まで入り込んできた。

そして、彼の身体を熱くしていった。

 四時。

栗須が、自分の分を掘り終わって

穴から上がると、

ダニーは、マンスノバじいさんの穴で、

土を掘っていた。

だから、彼はこの班の全員から

信頼されていた。

 栗須もマンスノバじいさんの穴に

入ろうとしたが、ダニーが制止し、

もう少しであることを告げた。



 五時前。

 「外人部隊」はノルマを達成し、

ラーゲルに帰ることが出来た。

二重の金網でボディーチェックをうける。

防寒コートの前ボタンをはずし、

看守の身体検査を待つ。

その間、身体の最後の温もりが没収され、

冷凍人間一歩手前になる。

 ラーゲル内には、いかなる私有物も

存在しない。

それも、厳しいラーゲルの掟であることの、

見せしめである。



 部屋に戻ると、

朝と同じく「バルト三国」の三人が、

廊下を大股で歩いて食堂に並ぶ。

「中央アジア」のイスラムの八人が、

パン配給所に行く。

他の者は、部屋を片付ける。

 この日は、朝食と同じく昼食も、

ラーゲル一番の暖かい食事であることは、

彼ら全員にとって最上の喜びだった。

 「シヴォードニァ(今日は)

ユビリェーイ!」

 誰かが言った。

 「ユビリェーイ??」

 栗須がダニーの顔を見た。

 「アナヴァサリー(記念日)」

 ダニーが小さな声で、英語で答えた。

 なるほど、今日は記念日だ。

朝食も昼食もラーゲル内で一番に、

暖かい食事を食べるのだから……。

 『ハラショウ(すばらしい)、

ユビリェーイ!』

 なんと素晴らしいロシア語だ。

記念日か・・・。

昼食が一番ということは、

一時間半後の夕食も、

一番で食べられる、ことも、

収容所の規則に書いてある。

 この班はこれまで一度だけ、

この「ユビリェーイ」になった

きりだった。

 マンスノバじいさんが食堂の一番席に

座って、暖かいパラウダーを飲み、

 「ユビリェーイ!」

と、かみ締めるように言った。

 朝食とまったく同じメニューだ。

ラーゲルは、食糧を半年間分

一度に政府から支給されるため、

半年間は、毎日同じメニューが続く。

だが、冷え切った胃袋と

身体を温める喜びは、最上のものだ。

そして、今日は、

二度目の「ユビリェーイ」なんだから……。

栗須もパラウダーとカーシャ・黒パン

(昼食は二百グラムときめられていた。)を

順に味わって、心の中でつふやいた。

 「シヴォードニァ、ユビリェーイ

(今日は、記念日だ)!」







  3 プラホーイジェーニ(受難日)



 「外人部隊」は、有頂天になって

意気揚々と食堂を出て、管理棟から

囚人棟の渡し廊下を歩いていた。

 外はいよいよ、最強の冬将軍の訪れを

予感させるような吹雪の声が

泣きわめいていたが、

彼らには、それは耳には入らなかった。

全員部屋に帰って、ベットに横たわる。

夕食までの一時間半、眠る。

ラーゲル一番の暖かい夕食。

全員が興奮気味に目を閉じた。

 ダニーがめずらしく、夢を見ていた。



  ローマの「メディチ公園」を歩き、

「スペイン広場」の階段を降りた

すぐ下の喫茶店「カフェ・グレコ」に、

彼女と入った。

 モーツアルトの音楽が流れ、

中世風の椅子に座る。

中国人か日本人か、東洋風の

黒い長い髪がきれいだ。

燕尾服のウエーターが、

「K・581」のクラリネットに合わせて、

注文のカフェオーレを持ってくる。

骨董的価値のあるカップに浮かぶ、

とろけたミルクの渦。

 彼女が言った。

 「どうして、帽子をかぶってるの?」

 ダニーは、右手を頭に持っていく。

なるほど、山高帽子を被っている。

 ……ラーゲルから出てきたばかり

だからなぁ……。

 「いや、ちょっとウエーターに

借りたのさ。」

 音楽が突然、ジョン・ケージに変わる。

スピーカーをこする前衛音楽だ。

リバプールのビートルズなら

まだよかったのに……。

 突然、燕尾服がテーブルに来て、

イタリア語をまくし立てる。

 「分かったよ。帽子は返すさ。」

 帽子が頭から取れない。

どういう分けだ?。

 ジョン・ケージが、

革靴を床にたたきつけるリズム。



 「ラブヴィジーチェ(起きろ)!」



 今度はロシア語か。

燕尾服に胸倉を捉まえられる。

イタリア人は、喧嘩早い。

身体が吊り上げられそうだ。

 ダニーの右手が、燕尾服の腹に一撃。

しかし、相手はひるまない。



ダニーの脇腹に強烈な一撃。



 ダニーは、脇腹の苦痛で目覚めた。



 ベットの目の前に、

二人の看守が、

自動小銃の台尻をダニーの脇腹に

打ち付けていた。

「イジ、シュダー!ドバイ!ドバイ!」

 ドアーの大男が、繰り返した。

 ダニーが反撃しょうとしたが、

問答無用の銃口が

鼻先に突きつけられた。



 部屋の着ぶくれ住人二十五人は、

ぞろぞろと廊下に整列した。

防寒コートと作業着の前ボタンを、

すべてはずすように命令され、

手袋を廊下に落として

ボタンをはずしだした。

 五人の看守が、厳重に、しかし

慣れた手つきで身体検査をする。

部屋には、五・六人が入って捜査している。

何を捜しているんだ。

俺たちゃ、何も持ってやしないし、

何もしていない。』

 ダニーの目が語っている。

 栗須の頭の中に、木

製スプーンが映写された。

木屑の枕のほころびに

差し込んであるはずだ。

彼のただ一つの貴重品だ。

だが、私物で許されているのは、

配給された煙草とマッチだけだ。



 七時三十分。

 夕食のベルが鳴っている。

 『シボードニァ、ユビリェーイ

(今日は、記念日)』が、

吹っ飛んだ。

 身体検査が終わっても、

部屋から看守は出てこない。

「外人部隊」は、廊下で

じっと立っていた。

目の前には、自動小銃が並んでいる。

身体が凍り付いていく。



 十五分後、

看守達の両手いっぱいに、

勝利品が持たれていた。

ナイフ・フォーク・スプーン・

針と糸・指輪・ガラスの破片……。

ラーゲル以外では見向きもされない品物だ。

 栗須は、三人目の看守の手に、

彼の貴重品が乗せられているのを、見た。

 一人の看守が怒鳴った。

 「チェースチチェ、モイノーミル

(かたづけろ)!」

 部屋の中は、マットの木屑や枕が散乱し、

足の踏み場もない。

 三ヶ月前のソ連船の

チェコ・スロバキア一等書記官の

部屋の状態が再現されていた。

部屋のすべてが飛散している。

 誰かが、吐き捨てるように言った。

「スビナーヤ・コージャー(豚皮め)!」

 看守のことを、彼らはそう呼んでいた。

「他の班の者も、みんな持ってるぜ……。」

 「密告しやがった……。」

「俺たちの『ユビリェーイ(記念日)』を

恨んだやつだ。」

 その時、ダニーが言った。

 「それだけじゃない。

俺が、脱走しないための先制攻撃だ。

ラーゲルの掟を忘れていた。



 『決して、人より幸福になることを、

望むな』

 だった。」



 この日、

「外人部隊」が、

片付けを終わって食堂に行った時は、

最後の班になっていた。

 冷たいパラウダーとカーシャを、

一気に胃の中に流し込んだ。

何の味もない、凍えきって胃を

より締め付けた。

 食堂から、とぼとぼと部屋に帰る

「外人部隊」に、

どこからか吹き寄せる「冬将軍」が

襲いかかった。

激しい金属音の吹雪が、

トタン屋根を押し潰すように

聞こえて来た。

マイナス四十度の本格的「冬将軍」の

到来を、否応なしに感じさせた。

 そして、「外人部隊」は、この日、

『シボードニァ、プラホーイジェーニ

(今日は、みじめな日だ)!』

 で、眠りについた。





 が、栗須だけが、

下腹の激痛によって、

ベットの上をのたうち回った。

「冬将軍」の吹雪が、

突然,

彼を襲ったのだ。

「激痛」と「厳寒」とが、

交互におこり、

彼は、

一晩中「ガタガタ」震え続けた。





      『第六章 殺人の痕跡(こんせき)』に、続く。


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第一章   白夜のささやき

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第二章   カットグラスの輝き

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第三章   裁き

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第四章   轟(とどろ)き・・・

(ダニーの話)

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第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

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第六章   殺人の痕跡・・・

(ドクター荻野の話)

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第七章   「アッシュ」の手引き・・・

(ビルの話)

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第八章   偽装の閃(ひらめ)き

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第九章 ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

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第十章   若き紅衛兵の嘆き

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第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

(五人めの妻の話)

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第十二章ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

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第十三章  飛べ!低く飛べ!・・・

           (チェ・ゲバラの話)

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第十四章  リビアンスター

          (リビアの星)

        (公開中)

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