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パープル ・ サンフラワー(小説)



マルタン丸山



第六章  殺人の痕跡(こんせき)・・・

(ドクター・荻野の話)



     1 ダイアモンド・ダスト



早朝、

ダニーに抱えられるようにして、

栗須(くりす)は医務室に行った。

強烈な[寒気]と[激痛]が彼を襲っていた。

体温は[四十一度]を超えた。

外気は[マイナス四十度]以上だから、

その差は、「八十度」以上ある。

栗須は、激しく震え続けた。

 「アベンジツィート」

 頭の禿げ上がった医者が言った。

 ダニーが、栗須の耳元で言った。

 「アベンディサイティス(盲腸炎)。

君は、ラッキーな奴だ。」

 「な……に……が……。」

 震えながら、のど元で栗須が言った。

 医者は、栗須に鎮静剤を打った。

栗須は眠った。

 ダニーは、部屋に帰って、

「バルト三国」の三人に、

決して、食堂は一番にならないことを、

指示した。

ラトビア人が、ウインクして

納得したことを示した。

昨夜の二の舞は、こりごりだ。

 イスラム人の八人には、

栗須のパンはいらないことを告げ、

部屋をかたづけた。

 モンゴル人の若いグオルが、

心配そうに、

栗須のことを尋ねた。

 「盲腸炎だ。」

 と答えると、

横のマンスノバじいさんが言った。

「『アベンディサイティス』!おう……、

うらやましい。

わしらは、子供の頃にみんな切っちまう。

日本人は、大事に持ってるんだなぁ。

しかし、うらやましいじゃないか。」

 モンゴル人のグオルが、

いつもはやや吊り上がった目を

かしげたので、続けた。

 「この国で、一番素晴らしいことは、

『囚人も一般市民も、病人なら、

すべて<平等>だ』ってことさ。」

 「平等?この国に?」

 「だから暖かい部屋で、

白いシーツの上に寝られるんだ。

うらやましいじゃないか。

四十一度以上の熱なんだろう?班長。」

 「ああ、四十一度ぴったりだった。」

 「四十一度以上でなければ、

病人とはみてくれないのが、

ラーゲルの法律だ。」

 ラーゲルに九年もいる

マンスノバじいさんは、

物知りでもあった。

 「管理棟に手術室はあるのかい?」

 「いいんや、町の病院に行くのさ。

病院はいい。

暖かい部屋、白いカーテン、

白いシーツ、それに白い服の看護婦が

いるね。そうそう、

グルジア人の経済学者カルロの奥さんは、

ミュートシストラー(看護婦)だと

言ってたな。」

 彼らは、ダニーの合図で部屋を出て、

食堂に歩きだした。

外は、冬将軍がトタン屋根を

打ち続けている。

 今朝は八番グループで食堂に入った

「外人部隊」は、

温かい野菜汁のパウダーとかゆの

カーシャを飲んで、

おとなしく部屋に帰った。

 やはり廊下では、

「冬将軍」がトタン屋根を

打ち続けている。

 部屋に帰ると、いつものように

ベットの上で横になりながら、

また、マンスノバじいさんが、

モンゴルのグオルに言った。

 「栗須の体温が四十一度だったが、

外の気温もマイナス四十一度になれば

いいのだが……。」

 「マイナス四十一度なら、

外で労働出来ないぜ?」

 「そうよ、だから、労働は『中止』になる!」

 マンスノバじいさんの言葉で、

数人の新人囚人が頭を上げた。

じいさんは、話しを続ける。

 「年に一度か二度ある。

わしゃーその日がくると、

泣けてくるよ。」

 「今日は、どうだい?」

 「微妙だなぁ……。

一度違いの四十度の労働も、

泣けてくるぜ……。

すべてが凍ってるんだ。

空気まで凍って、ぎらぎらしてて、

ほら、なんて言うんだっけ、あの輝き。

空気が、すべて金・銀・宝石のように輝き出す。

わしゃ、うっとりと見取れてしまったことがあった。

その世界で死ねるなら

死んでいいって思ってしまった。

前にいた班で一人、

本当に死んだ奴がいたけど……。」

 ダニーの方を見ながら、続けた。

「班長!あの輝きはなんて言ったっけ?」

「『ダイヤモンド・ダスト』

この言葉は世界中で共通語だ。

ダストは塵(ちり)のことだが、

きれいに聞こえる、この英語は……。」

 タタール人のナンギスが、

突然 、口を挟んだ。

 「それより、俺は、この部屋で

寝ていたいよ。

マイナス四十度なら、

穴ぼこを掘る尻から、

土が凍っていくんだ。

いくら掘っても氷の土さ。

ああ、いやだいやだ!」

 グオルの上のベットのナンギスが、

ベットから降りて、

外の温度計を見に部屋を出て行った。

 二十三人は、ナンギス(二十五歳。

十八世紀のクリミア帝国の子孫と

いうことで、逮捕されたらしい。)の

帰ってくるのを待った。

彫りの深い目で獅子っ鼻の彼が、

ドアーから顔を覗かせた時、

全員がベットから起き上がって、

彼の第一声を待った。

 「四十度五分だ!」

 誰かが口笛を吹いた。

 「あと零点五度だ。」

 「時間は、何時だ?」

「日本人のЩ(シチャー)7がいない

から分からんなぁ……。」

 「六時三十分位だろう。」

 「あと三十分位でどうなるかなぁ、

零点五度……。」

 「この冬将軍の吹雪が続く限り、

可能性があるなぁ……。」

 「Щ(シチャー)7のパープル・

サンフラワー栗須さんは、

出発したかなぁ、病院へ……。」

 モンゴル人のグオルが、

思い出したように言った。

 「分からんが、彼は間違いなく

白いシーツの上に眠れる。

俺たちは、せめて、

このパイプベットでいいから

一日ぐっすり眠りたいねぇ……。」

 外人部隊の全員が、

そうなることを願っていた。





     2  白い日本語





 栗須は、

六時三十分に四輪駆動のトラックの

助手席に座らされて、

管理棟の出口から吹雪の中を走っていた。

 痛みで意識が時々もどってきていた。

例の穴掘りの作業場の横を通って

南下しているたらしかった。

 ホローの透き間から冬将軍が押し寄せ、

震え上がる。

車のヒーターなど、

何の役にもたたなかった。

 次の意識が戻った時、

橋を渡っていた。

下の川は凍り付いて、

銀色に光っていた。

町などなかった。



 次の意識は、

トラックから抱きかかえられ、

担架に乗せられていた時だった。

 大きな建物の前には、

次のような看板が立っていた。



『KHABAROVSK БОЛЬНИЦУ』



 どこかで見たような文字だが、

また眠りに入った。

 次は、服をはがされ、

白いシーツに寝かされた。

その後、身体中が温かい物に包まれた時、

誰かが覗き込んでいる。

 髪も眉も真っ白な老医師のようだった。

耳元で彼が言った。

 「私の声が聞こえるかね?」

 太い威厳のある、日本語だった。

 「ここは、ハバロフスク病院だ。

君は、急性盲腸炎で、

今、手術せねば手遅れになる。

私の名は、ドクター・荻野!

君を切開するが、

承諾するね?」

 栗須は、軽く頷き、

何ヶ月ぶりかで、

身も心も清められるような、

「真っ白い日本語」で眠った。





・・・・3 ドクター・荻野(おぎの)の話・・・・・





………一九三五年~~一九六八年……

 一九三五年。

 医学部のインターンを終えた荻野は、

ただ一人の肉親の姉を頼って、 

中国の大連(タイレン)に渡った。

子供の頃に流行したチフスによって

両親を亡くした。

 姉は、日本の高等女学校を卒業し、

大連で教師をしていた。

その姉を追って、

渡ってきたのである。

 大連市内の総合病院に就職した次の年、

アカシアの花が咲く頃に、

姉の同僚の「和子」と結婚した。

 和子は、小学校の講師だったが、

専任以上に教育熱心なしっかり者で、

しかも温和な性格は、

弟好みと見抜いた姉は、

丘の上の自宅で二人を見合いさせた。

 二人は、国際都市らしく

西洋人が多く出入りする、

大連日本橋付近や大連中央公園、

西欧風の建物が並ぶ大連浪速町などで

デートを重ね、

心を確かめ合って結婚した。

 次の年、

女の子が生まれ、

「光子」と命名した。

いつまでも光るように美しい子供で

あってほしい、と願ったためだ。

荻野一家は、幸せな家庭を築いていたが、

時代は、どんどん悪い方に進み、

大連の街も外国人が減るのと正反対に、

日本の軍人の姿が目立ってきた。

 荻野は、

次の年に「召集令状」によって、

軍病院に移った。

外科だった彼は、

地方から運ばれてくる患者の数によって、

戦争が日増しに拡大していることを知った。

 二年間の兵役の間、

野戦病院には行かなかったものの、

かなりの数の手術をした。

 兵役を終え、大連の家に帰った時は、

光子は三歳になっていた。

帰った数日は、

光子から他人扱いされるのが辛かったが、

その内に膝の上に乗ってくるようになり、

可愛さが増していった。

 元勤めていた大連市の総合病院で、

荻野の手術によって一命を取り留めた、

中国人の『馮(フオン)』一家に、

日常の世話になっていた和子が、

二人目の赤子を腹の中に宿した時、

二度目の「召集令状」が、

荻野に来た。

 大連駅で「馮(フオン)」一家と和子、

それに五歳の光子に見送られて、

荻野は、大連から北東の中国第二の都市

「ハルピン」に行き、

そこから五十キロ離れた

野戦病院に赴いたのは、

一九四三年の早春の頃だ。

 前回の召集の時とは大違いで、

手術道具や薬が不足していた。

 荻野は頭の中で、

今度の戦争は、

日本が負けることを予感した。





 一九四四年から四五年にかけて、

前線の負傷兵は日増しに増え、

医薬品が底をつき、

普通なら死なせることのない兵を

見殺しにすることになった。

 荻野は、将校に何度も掛け合ったが、

将校にも、なすすべがなかった。

 八月八日、

突然のソ連軍の国境越えにより、

前線からの兵士や開拓村の避難民によって、

野戦病院はごったかえした。

九日には、ハルピン近辺まで来ているらしい。



 八月十日早朝。

荻野は将校に呼ばれた。

将校は、

 「ハルピンの軍病院に行って、

医薬品を持って帰るように。

君の報告通りなら、

薬は底をついた状態だ。

もし、ハルピンにないのなら、

『大連』の病院に列車で行って、

持って帰るように。」

 と命じた。

 部屋を出ようとした時、

将校は、荻野を呼び止めた。

 「荻野軍医、

昨日九日ソ連軍が攻めてきた。

本土の、米国軍による大型爆弾

のこともある。もし、もし……。」

 将校は、言葉を切って、

小さくささやいた。

 「……日本が、敗れたなら……、

君は帰ってこなくてもよい。

君は、この野戦病院で

よく頑張ってくれた。

君の誠実さは、

全員が認めている。

私から礼を言おう。

ありがとう。

君の家族は大連にいたね。

もし、日本の敗戦を聞いたなら、

家族のもとに行きなさい。

ここは、君のいる場所ではなくなった。」

その後、将校は、

一人の上等兵を呼んで紹介した。

 「私の炊事や身の回りを任せていた

上等兵だ。

やはり、家族が大連にいる。

君の事は、話してある。

二人なら道中は、安全だろう。」



 荻野たちは、野戦病院でただ一台に

なってしまったトラックで、

ハルピンの軍病院に行った。

が、やはり薬品などあるはずがなく、

軍病院から逆に、

「大連」で薬を手に入れたら、

一部を譲ってほしい、

とまで言われた。

その代わり、列車優先証明書を預かり、

その日の昼、

二人は、列車に乗り込んだ。

 優先座席は、

日本人の軍人やその家族で

いっぱいになっていたが、

顔色は青ざめ、ひそひそ話しは、

敗戦の可能性についてであった。

 列車は十一時に出発し、

二十二時に「大連」に着くはずだったが、

三十分走って止まり、

また三十分走って止まり、

次の三十分ほど走った所で、

完全に止まってしまった。

 車掌は、信号機の故障だ、

と言い回ったが、

乗客は不安を募らせた。

 荻野は、何年ぶりかで会う家族のこと

を想い、高ぶる心を押さえた。

 結局、列車は動かずじまいで

三夜を過ごし、明くる十四日の朝、

信号機が赤のまま出発した。

 途中三カ所の駅で止まり、

また一夜が過ぎ、十五日、

あと僅かで「大連」という所で、

列車内は、あらぬ噂が流れた。

 「日本が『負けた』。」

というのだ。

 荻野は、まさかという気持ちと、

納得の気持ちが交差し、

複雑な心境になった。

そして、将校が言った言葉、

 「もし、日本が敗れたなら、

帰ってこなくてよい。」

を思い出した。

 列車が、大連駅に着いた時、

駅は大混乱に陥っていた。

 中国人が、奇声を発し、

 「中国が、日本に『勝った』。」

ことを、言い触らしていた。

そして、列車から降りてくる日本人を

異様な目で睨み付けた。

今までの屈辱が爆発しようとしていた。

 長い年月の圧迫は、

民族が民族の憎しみを増幅させていた。

 列車から降りる日本人は、

散り散りに逃げ惑ったが、

猛り狂う民族は、

一撃に呑み込んでしまった。

 荻野は、闇雲に走ったが、

誰かが彼の足を引っ掛け、

前屈みにもんどり打って転げ込んだ。

その上から、黒い塊が、

幾十にも襲いかかった。

上等兵も同じ状態になっていた。

 その時、突然、中国語の

怒鳴り声が聞こえた。

 「プッシン!プッシン!

チンチャー・ライロー

(やめろ!やめろ!警察が来る)!」

黒い塊は、一斉にそこから走り去った。

 荻野は、唇の血を拭いて

起き上がろうとした時、

また、中国語が聞こえて来た。

 「ワイクーイーション、オギノ、

イーション

(外科医の荻野先生)。」

 荻野が振り向くと、

中国人の「馮(フオン)」と

二十歳の長男が、

側に駆け寄ってきた。

馮が、日本語で言った。

 「先生、その服、いたら、殺される。

すぐこっち、来る。」

 走りながら裏に抜ける通路に入り、

自分の中国服を荻野に、

息子の服を上等兵に着せて、言った。

 「先生、昼過ぎ、中国人によって、

日本人街、焼き討ちにあい、

お姉様は、亡くなられた。

大連、大変な事になってる。

ソ連兵、トラックと戦車、何万人、

雪崩れ込んで来た。

略奪・強姦・無作為殺人、やってる。」

 荻野は、姉の死を聞かされて、

血の気を引いたが、

かろうじて和子と子供のことを尋ねた。

 「奥様とお嬢様、私の家に避難してる。

行くある。」

 そう言って馮は、買い出しの荷を担ぎ、

二人を案内していった。

長男は二人をガードしながら歩き出した。

途中、現在の大連の状況を話し出した。





 昼過ぎの「玉音放送」の後、

中国人は、

丘の上の日本人街に押し寄せ、

略奪と放火がおこり、

今も燃えている所であること、

その直後に大連大広場から

四方に放射された道路を走り、

満州鉄道本社や豪壮なヤマトホテル・

軍病院には、

ソ連の国旗が立てられていると

いうことだった。

 そして、その後、中国人でさえ、

入れ墨をした囚人志願兵のならず者によって、

危険状態にあることも告げた。

上等兵の家にたどり着くと、

そこは、上等兵が料理屋をしていた時の、

店番の中国人が、出てきた。

四人は、一番奥の部屋に通されると、

そこに上等兵の妻と一歳ぐらいの赤ん坊が

隠れていた。

上等兵とその妻は抱き合って泣き崩れた。

荻野軍医は、上等兵に言った。

「家族を守ってやって下さい。

そして、いつか日本で会いましょう。

無駄死には必要ない。

私も家族の所に行く。

必ず日本に連れて帰る。

日本でまた会おう。」

 二人は敬礼をして別れた。

 荻野は、家族との出会いを思い焦った。

ようやく馮の家にたどり着いて、

裏口から入った時、

突然、馮が大声で叫んだ。

馮の長男と荻野が続いて裏戸を押して

一歩足を入れたが、

その悲惨な状況を一瞬茫然と眺めた。

そこには馮の妻と、

和子・二人の子供が、

無惨な殺され方で亡くなっていた。

 彼らが近づこうとした時、

表座敷で物音がした。

 馮は、包丁を持ち、

ゆっくりと表座敷に進んだ。

荻野も中国服の下の軍服から

拳銃を取り出し、前に進んだ。

長男は、薪割りのオノを携えた。

 馮は、表座敷の戸に手をかけ、

一気に押して中に飛び込み、

ソ連兵がひるんだすきに襲いかかった。

 別のソ連兵が自動小銃を乱射し、

馮とソ連兵が血を噴き出して倒れた。

荻野は射撃訓練の要領で

一回転して部屋に入り、

両手で銃を相手の胸に打ち込んだ。

 荻野は、この時初めて、

人を殺した。

どんなことがあっても、

人は殺さぬ、

という彼の固く長い間の信念は、

この一瞬、もろくも破れ去った。

 ソ連兵は膝から崩れ、

うつ伏せになって倒れた。

その時、ソ連兵の胸ポケットから、

真珠が飛散り、

指輪も飛散した。

 荻野が起き上がろうとした時、

馮の長男が叫び、

荻野は又も一回転した。

もう一人のソ連兵が、

荻野に襲いかかろうとしたのだった。

 しかし、ナイフを持ったソ連兵は、

重く鈍い音をたてて、

荻野の真横に倒れてきた。

背中には、オノが刺さっていた。

 その後、荻野と馮の長男は、

家族の死体を奥の部屋のベットに、

丁重に寝かせた。

 が、どこからか、

火の手が上がっているらしく、

表も裏も人々の逃げ惑う声が聞こえて来た。

二、三件側まで燃え移って来ているらしい。

 馮の長男は、ソ連兵のポケットから、

彼の家族の財産である、

宝石類を取り返し、

荻野に何粒かの真珠と、

ダイヤの指輪を手渡した。

それは、荻野が、和子と結婚した時に

プレゼントした品々であった。

火は、馮の家にパチパチと燃え移って来た。

血だらけの服から別の中国服に着替え、

家庭医薬品をポケットに入れた。

 彼らは、表通りから出て、

その家が燃え荼毘(だび)に付した

ことを確認して、両手を合わせ、

そして駅に向かった。

 駅の裏通りで野宿しながら、

列車が動くのを待った。

荻野は、肉親のいない大連にいるよりも、

野戦病院に帰ることを決意していたし、

馮の長男も父方の実家がある、

ハルピンの家に行くことにしていた。

 彼らは、三日間、待ち続け、

ハルピンに行く列車の時刻を聞き、

オパールの指輪一つと引き換えに、

貨物車の隅に乗り込んだ。

途中、ソ連兵の検閲が客車で

行われているらしく、

戦車が並んでいるのが、

透き間から臨めた。





 一日半、彼らは身動きせず、

ハルピン駅の手前で飛び降りて、

馮家の実家に行った。

 馮の祖父は、

息子が世話になった礼を述べ、

荻野を家に匿(かくま)った。

 祖父の情報では、ハルピン病院は、

ソ連軍が接収しているが、

野戦病院については情報は

つかめなかった。



 二日間厄介になってから、

野戦病院に行くことを告げると、

祖父はどこからか牛車を借りたきて

荻野を乗せ、半日ほど送って、

川の側で降ろし、

後三十キロ程で野戦病院があることを、

教えた。

荻野は、妻の形見の品となった指輪類と

中国服を祖父に渡し、

自分には不必要なものになった

ことを語った。

 ただ、真珠を三粒だけ、

和子と光子とその下の子のつもりで

軍服のポケットの中に入れた。

 暗くなるのを待って歩き出した。

星を見ながら教えられた方向に進んだ。

 早朝、

野戦病院に着いたが、

隊は解散しており、

そこには、重病人の患者の兵が

いるだけだった。

 将校が飛んで来て、

彼の労をねぎらった。

荻野は、家庭医薬品しか持って帰れ

なかったことを述べたが、

ソ連兵を殺したことは黙っていた。

 次の日、

ソ連兵が入って来て、

武装解除を受け、

数日後、

丘の上の天幕に移され、

兵士だけトラックで、

ハルピン駅まで行き、

満鉄の列車で西に向かった。



そして、「ウラジオストック」で、

海から運ばれて来た日本兵と合流し、

シベリア鉄道で

「ハバロフスク」に行き、

そこから六十キロの

『日本人収容所』に入った。

 荻野は、ソ連の軍医の助手として

働いたが、

半年の間に日本兵の悲惨な死を

見続けることになった。

 それは、発疹チウスの流行と

ビタミンCの欠乏による死亡だった。

主食は粟、副食は塩汁だけだった食事は、

次の年の一九四六年の

三月までに二千人いた日本兵を、

半数にまでに減らしてしまったのである。

その情景は、地獄の絵図を

見るようであった。

 発疹チフスは、ノミが媒体だが、

四十度を越す高熱、

激しい頭痛及び筋肉痛、

全身に朱紅色の特徴ある発疹が出て、

やがて脳症を起こし精神錯乱状態になり、

のたうちまわって狂い死にするのだ。

 薬など何一つないこの収容所で、

日本人の医師として荻野は、

死んでいく日本兵の末期の水を含ませ、

その状況を書類に書き続けた。

 そして、何度も収容所監督に、

収容所の食事の改善と

衛生面の改善を訴え続けた。

が、梨のつぶてであった。



 四月初旬、

荻野は、突然ソ連の軍医に呼ばれた。

てっきり「収容所改善」の話だと

思っていたら、彼は、

 「収容所監督婦人が、

難産で苦しんでいるので行け。」

 と言うことだった。

そして、彼は、付け足して言った。

 「うまくいけば、君の願いは、

かなえられるだろう!」

 片目でウインクした意味を

理解した荻野は、軍医と共に、

監視隊の将校官舎に行った。

 部屋には、産婆らしき

中年の婦人がいて、

彼女が言うことには、

二日前から産気付き、

陣痛の来るたびに

両手で腹を押さえて懸命になっていたが、

児頭が大きくて、

なかなか出て来そうもなかった、らしい。

軍医も試み、そして、

膣入孔切開を申しでたが、

固く断られたらしい。

 荻野は、学生時代に外科以外の事も

一通り習ったが、名案が浮かばず、

隣りの部屋で、



痩せこけた腕を組んで、

目を閉じて思案した。



 太った収容所監督長が部屋に入って来て、

片言の英語とロシア語で、

 「何とかして欲しい!」

 と、頼み込んだ。

 しかし、名案は浮かばず、

空腹の音だけが腹から返事をしていた。

 収容所監督長は部屋を出て、

軍医と共に両手いっぱいに

チーズや白パンや巻き煙草、

それに飲み物を運んできた。

 「食べて、何とか妙案を!」

 と言う。

最初断ったが、腹の虫には勝てず、

日本兵に悪いと思いながら食べだした。

 カマンベールチーズ・ニラの葉炒め・

白パンを少しずつ口に入れて味わった。

 しかし、名案は浮かばなかった。

監督長は、飲み物をグラスに注ぎ、勧めた。

荻野は一口飲んで、

思い切り噴き出した。

口の中と喉が燃えるように熱かった。

監督長は、ハンカチを渡しながら、

 「ウオッカ!五つ星のウオッカ!」

   と、言った。

 その時、喉の熱さで、

ある事を思い出した。

 『塩酸キニーネ!』

 学生時代、薬理学講義で、

 『塩酸キニーネは、

マラリアの特効薬であるが、

副作用として、

子宮筋の収縮作用がある。』

 と習い、実習の時、

その塩酸キニーネを少量なめたが、

口と喉が強烈に焼けるように

熱かったのだ。

 軍医に頼んだ。

 「塩酸キニーネか、

それでつくられた注射薬を

持って来て欲しい。」

 三十分後、

強心剤の後で、

塩酸キニーネの注射をした。

 婦人は、十分後に、

強い陣痛が来て、腹圧をかけると、

母子共に無事に出産を

終えることができた。

 監督長は大きな身体で、

痩せた荻野を抱きしめて喜んだ。

荻野も喜び、

ソ連兵を射撃した罪の意識が

少し柔らかになった。





 四月中旬、

収容所の食事は、

粟と少量の黒パン、

それにニラとキャベツの入った

塩汁になった。

 そして、下旬には、石鹸が届けられ、

晴れた日に雪どけ水をドラム缶で沸かし、

日本兵は衣服を洗濯した。

 その後、

発疹チフスや栄養失調で死ぬ者が、

めっきり減った。

 しかし、軍医である荻野にとって、

千人あまりの日本兵の死は、

強い後悔と悼(いた)みが残った。

 その千人の中に、

荻野の上官将校も含まれていた。






 一九四八年、

三年目の春、

帰国命令が伝えられた。

収容所の日本兵全員が喜んだ。

 が、荻野は、

このシベリアに残る事に決めた。

戦友の霊を弔(とむら)うことを、

決めたのだ。

それは、日本に帰国しても、

肉親が一人もいない荻野にとって、

ごく自然な心の動きだった。

 ソ連の軍医は、

荻野が日本に帰国しないことを知って、

ハバロフスクの自分の家に

来るように言った。

彼も、この春で兵役が終わり、

病院に戻るらしい。

 四月、

戦友たちと別れて、

軍医の家にころげこんで、

ハバロフスク大学の医学部受験の

勉強に入った。

 ロシア語は、

収容所での軍医の指導によって、

相当理解出来るようになっていたが、

ハバロフスク大学で歴史・民俗学を

専攻している、

軍医の娘ナターシャの特訓を受けた。

 一九四八年九月、

医学部に合格と同時に、

ナターシャと学生結婚、

三十八歳だった。

 外科と産婦人科を専攻し、

ハバロフスク病院で、

後の人生を送りだした。

その間、二人の子供が生まれ、

彼の心の傷は癒(い)えていった。




 一九六八年九月、



荻野の患者に対する献身的な行為と

研究発表は、ソ連内外で評価をえて、

ハバロフスク病院長に任命された。

そして、各地の大学病院で講演を行い、

多忙な毎日を送った。

 が、どんなに忙しくとも、

彼は患者を診察し、

特に、ラーゲル(収容所)から来る患者は、

必ず直接彼が診察するのが常だった。

 ラーゲルからの患者は、

日本人収容所での彼自身であり、

精神錯乱状態で死んでいった

戦友たちでもあった。

 しかし、荻野の奥底には、

いつまでも、果てることのない

『殺人の痕跡(こんせき)』が、

深く深くこびりついていた。





     『第七章  追跡(ついせき)』に続く



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第一章   白夜のささやき

        (公開中)


第二章   カットグラスの輝き

        (公開中)

第三章   裁き

        (公開中)

第四章   轟(とどろ)き・・・

(ダニーの話)

        (公開中)

第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

        (公開中)

第六章   殺人の痕跡・・・

(ドクター荻野の話)

        (公開中)

第七章   「アッシュ」の手引き・・・

(ビルの話)

        (公開中)

第八章   偽装の閃(ひらめ)き

        (公開中)

第九章ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

        (公開中)

第十章   若き紅衛兵の嘆き

        (公開中)

第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

(五人めの妻の話)

        (公開中)

第十二章ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

        (公開中)

第十三章  飛べ!低く飛べ!・・・

          (チェ・ゲバラの話)

        (公開中)

第十四章  リビアンスター・・・

         (リビアの星)

        (公開中)

大連(タイレン)

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