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パープル サンフラワー(小説)

マルタン丸山



 第四章  轟(とどろ)き・・・

(ダニーの話)









   1、 貨物列車




  二日後の真夜中、

縦じまの囚人(ゼック)服に

着替えさせられた栗須(くりす)は

軍用トラックで他の囚人と共に、

真っ暗闇の中を出発した。

この国のすべては、

真っ暗闇から始まるようだった。

一~二時間走って駅らしい所に

降ろされた。

腕には、二人一組で手錠がはめられ、

二列縦隊で列車に乗り込んだ。

真ん中の通路を歩き

全員無言で指示された場所に、

一方向を向いて腰を降ろし、

板の背もたれにもたれて目を閉じた。

眠るわけでもなく、

ただじっとしていた。

他の囚人も同じ状態だった。

この列車の全員が、

絶望に打ちのめされ、

ただ沈黙の闇に身を於いて、

行く末の不安が支配していた。

 まもなく列車は動き出した。

ほどよい列車の振動が、

栗須を揺りかごの中の赤ん坊のように

夢に誘った。





 穏やかな夢だった。





田舎の家の田んぼの黄金色の稲が、

風に揺られて

美しいさざ波をつくっていた。

その横のあぜ道を、

子供が二人、

網とバケツを持って歩いている。

小さい方の子が何か指さして言っている。

よく見ると「ザリガニ」だった。

大きな爪をいっぱい広げて

後ずさりしている。

大きい方の子が、

網をそっと出してみる。

ザリガニは、

一瞬にして水の中に消え、

泥水が浮かび上がる。

小さい子が残念そうにして、

また何か言った。

そばに栗須が立っている。

子供から網を借り、

泥水に持って行く。

何度か揺すって上げると、

さっきの大きな爪の

ザリガニが入っている。

子供たちは歓声をあげて

バンザイをする。

だが、そのバンザイした彼らの腕は、

手錠がはめられていた。





 列車の停車する不規則な振動で

目覚めた。

小さな空気穴と扉の透き間から、

太陽光線がほんの少し差し込んでいた。

貨車かコンテナーを改造したらしい

列車だった。

隣の男は、まだ眠っているようで、

栗須の肩にもたれかかっていた。

顔は、よく分からなかった。

突然、後部のドアーの開く音と共に、

明るい陽光が列車全体に

差し込んで来て、

目を開けていられない状態に

なっていた。

意味の分からないロシア語が

聞こえた。

後ろから指示されるままに立ち上がり、

通路を出て、

後部の光線の白い塊の方に

歩いていった。

何も見えなかった。

光がこんなに白いものとは、

今まで一度も思わなかった。

部屋から外に出る時、

何か柔らかいものを手渡された。

まつ毛の間から見ると黒パンだった。

列車から降りる時には、

水のような液体の入った

缶コップが渡された。

そして、足を踏み降ろした所は、

大高原の真っ只中で、

線路だけが石と赤土の間を

果てしなく続き、

所々にわずかな草が生えている程度の

不毛の大地だった。

 栗須の手錠の相手は、

赤毛の男である。

彼は、栗須の顔を薄目で

覗き込んできた。

 「シワノ(中国人)?」

「……」

「ラテーム・トウールヌ

(目まいがする)。」

フランス語らしかった。

「フレンチ(フランス人)?」

「ウイ。シワノ?……ジャポーネ?」

「イエス」

「コマンヴィーザブレウ゜レヴー……。」

栗須には意味が分からなかった。

「誠に悪いが、フ

ランス語は話せない。」

「じゃ、英語でやろう。」

二人は、手錠の掛かった手で

コップを持ち、

黒パンを口に頬張って、

空いた手で握手した。

変な挨拶だった。

そのまま、黒パンをかじると、

やはり消毒の味が、

顔中に広がった。

手錠のかかった手のコップの、

少しだけ塩味のするスープは、

一緒に飲んだ。

 フランス人の名を聞こうとした時、

カーキ色の軍人が、

自動小銃を二人に向けた。

二人は、ひたすら黒パンを口に入れた。

多くの囚人は、

座ったり立ったりして用をたしていた。

栗須たちも並んで用をたした。

重い笛の音が鳴り、各車両の囚人たちは、

整列して車両に乗り込んだ。

後部の扉が、大きな音を立てて閉じられた。

黒く暗く深い闇だった。

が、二~三分もたつと、

隣のフランス人の輪郭が見え始めた。

人間の視力は、繰り返されることで、

進化する。

 例の空気穴と扉の透き間の明かりが、

彼らを少しだけ自由にした。

どこからか、ざわめき声が聞こえてきた。

それが合図のように、

囚人たちはおのおのささやき合った。

 隣のフランス人が、

栗須の脇腹をヒジでつつき、

耳元で何かを言った。

よく分からなかった。

もれるような声で聞き返すと、

もう一度言ってきた。
 「なんじの名は?」

何かの本で読んだ英語で、

続けて言った。

 「私の名は、

ダニエル・C・バンデー。

みなの衆には、

赤毛のダニーと呼ばれておる。」

シェークスピアの「ハムレット」の

言いまわしらしかった。

栗須も真似てみた。

 「私の名は、栗須と申す者である。

ロシア人は、パープル・サンフラワー・

栗須と呼んでおる。」

 「なんじの英語は、

いずこで学ばれたのじゃ?」

 「ジャパンである。」

 「へたじゃのう……なんじの話し方は、

まるで百年も二百年も前の英語である。」

 栗須は、心臓が激しく鼓動した。

考えれば書物で学んだ英語しか

勉強していなかった。

 「リアリー(ホント)?」

 「ああ!」

 ダニーは、クスッと笑った。

栗須も自分の英語のイメージを想像して、

笑ってしまった。

二人の肩が揺れて、

手錠のかすかな音がした。

 ダニーが言った。

 「どうして日本人のお前さんが、

こうなったんだ?」

 手錠のかかった腕を少し上げた。

 「君こそ、フランス人でありながら、

どうしてこうなったんだ?」

 ダニーは栗須を見て、にゃっと笑った。

白い歯が、はっきり見えるほど、

目が闇になれた。

 「亡命したのさ、ソビエトに!」

 「ソ連に亡命?!

それがどうしてこの貨物列車に……?」

 「まあ、それにはいろいろあって、

……一年の刑をくらったんだ。

お前さんは、何年の刑だ?」

 「十一年!」

 栗須の口から、

その年数が自然にこぼれた。

 「こいつはスゲー!

十一年には負けたよ!」

 手を上に上げて大きなゼスチャーを

しようとしたが、

栗須の手も上に上がった。

手首の手錠がくい込んできた。

栗須は、呻き声をあげた。

 「悪い。悪い。お前さんとは、

鎖でつながれた仲だったことを

忘れていた。

……ところでお前さんは何をやったんだ。」

 「何もやっていない。

ただ、人に頼まれて、

テープレコーダーを

チェコ・スロバキアに持ってっただけだ。」

 ダニーは、口笛を吹いた。

その時、最後尾にいるカーキ色の軍人が、

ロシア語で怒鳴り声をあげて歩いて来た。

貨物列車の人間は、

一斉に黙りこくった。

カーキ色は、最前列まで長靴の音を

響かせて歩いていき、

回れ右をしてまた通り過ぎて行った。

手には自動小銃が握られているのが

見えた。
 二~三分してから、

またひそひそ声が聞こえてきた。

 「パープル!まさか八月二十日に



プラハにいたんじゃないだろうねェ。

あれは、ひどかった。

あんなことがあるなら、

ソビエトには亡命しなかったよ!」

 「その日、プラハにいたよ。」

 その言葉にダニーは、

また口笛を吹きかけて、

口を押さえて話し出した。

 「あの日、俺は、

モスクワにいた。

八月十九日までは、

クレムリンに敬意を払っていたんだ。

ところが、

武力介入を国営テレビで見て

信じられなかったねェ……。

『人間の顔をしたマルクス主義』

を唱えた『プラハの春』を、

まさか戦車と空挺部隊を送り込み、

チェコの『同志』に

『要請』されたためとか、

『友好的な支援』とか

もっともなことを言って……

アナウンサーがメモリながら

無表情に言ってたね。」

 大きなため息をつきながら続けた。

「大国の政府は、他国への侵攻を

すべてその言葉で正当化する。

アメリカが三年前に

『サントドミンゴ』に侵攻したように。」

 栗須は、中南米の『サントドミンゴ』

がどこにあるのか

知らなかったので、

話を変えるつもりで言った。

 「ダニー、君は、

ロシア語も話せるのか?」

 「まあね!」

 「他には?」

 「分からない……」

 「分からないって……」

 「今のところ、

母国語のフランス語と、

今話している英語と、

ドイツ語、スペイン語、

ポルトガル語、中国語、

日本語……」

 「ニホン語?」

 栗須はあきれかえって

ダニーの横顔を見た。

ダミーは、ウインクして

日本語で言った。

 「ボクハ、ニホンゴ、スコシ

ハハナセル、ハントシイタ!」

 栗須もつられて片言の日本語で言った。

 「ドコニイタノダ?」

 「トウキョウ」

 「ナニオシテイタ」

 「リュウガク」

 「ドコノガッコウ?」

 「トウキョウダイガク」

 「ゲェー、ナニヲセンコーシテイタ?」

 「ホウリツ」

 「ゲェー」

 栗須は二度驚きの声を上げた。

 「デモ、ニホンハダメダ」

 「ナゼ?」

 突然英語が返ってきた。

 「それについては、

また今度話す。」

 「分かった。じゃ話題を変えて、

言語についてだけど、

どうして君は、

それほど多くの言葉が話せるんだい?」

 「なあに、ヨーロッパのほとんどの

民族の言葉は、

ラテン語から出発している。

助動詞と助詞の違いさえ分かれば、

それでO・Kになる。」

 「ぼくにも話せるようになるかな、

ロシア語が?」



 「十一年もロシアにいるからには、

お前さんだって

話せるようになるよ。

心配なら僕が教えてもいいよ。

ロシア語は、この言葉を覚えておくんだ。

『ア、エト、カーク、バロスキー』」

 「どういう意味だい?」

 「ロシア人に話してみれば、

すぐに分かるョ。」

 「ところで、話しは変わるけど、

君はさっき『空挺部隊』と

いってたけど、それは、事実なのか?」

 「もちろん。

戦車と共に空挺部隊がのりこんだ、

ってテレビでは言ってた。

僕のロシア語の理解が正しければ……。

するとお前さん、

空挺部隊を知らないなら、

プラハのどこにいたんだ?」

 「プラハのカレル橋の側、

戦車の機関銃で腹をやられて……。」

 「腹を?」 

 「そう、三発。二発は、

ショルダーの中のテープレコーダー、

一発は、そこを通りこして

脇腹をかすってた。」

 「おいおい、お前さん、

よくもまあそれで生きていたなァ!」

 また最後尾から怒鳴り声が起こった。

栗須とダニーは、

目を閉じて互いの人生を振り返った。





・・・ 2 ダニーの話(フランス・パリ)・・・



 

 一九六八年五月、

パリは騒然と揺れていた。

市民と学生が『パリ革命』を

行っていたのだ。

 事の発端は、まだ、肌寒い三月、

パリのナンテール大学・大学院生で、

髪の赤い学生(通称赤毛のダニー)が、

アメリカの雑誌

『タイムス』のベトナム反戦の記事を読

みながら

叫んだ言葉だった。




 『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』




 この言葉を耳にした周りの学生が、

ダニーに何のことかと



問いただした。

ダニーは言った。

 「この写真を見ろよ。

アメリカの学生や一般市民は、

ベトナムの反戦のために、

二十万人がワシントンで集合して、

革命を行っている。

なのに、パリはどうだ?

第二次世界大戦から二十三年間、

一般市民の生活は何一つ変化もせず、

良くなどなってやしない。

アメリカの学生及び市民は、

ベトナムでの人殺しを反省し、

戦争をやめさすための行動をしているのに、

俺たちは、ド・ゴール(大統領)

という独裁政治家に

首根っこをつかまれ、

むなしい自己満足に浸っているだけだ。

パリには革命が必要なのだ。

二十三年間、

パリ市民の上で反り返っている

ド・ゴールや閣僚を

一般市民に引きおろそうではないか!」

 傍らの学生が続けて言った。

 「そうだ!俺の親父は労働者だが、

生活は二十三年前と

少しも変わらずだ。

そして僕は、貧乏学生で、

スモール・アニマル(ノミ)の住む、

薄汚い部屋で生活している。

実にみじめな状態で、

なんら改善されていない。」

 また、隣の学生が言った。

 「それに、俺たちが卒業しても、

大企業の席は

どこかの『ボンボン(お坊ちゃま)』に

さらわれ、

就職さえままならない。」

 ダニーが続けて言った。

 「今、現在、パリには、革命がいる。

一九一七年のロシア革命のように、

労働者や市民や

貧しい学生のための革命がいる。




『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』」




 彼がこう叫んでいるときには、

彼の周りには、

もう五十人を超える学生が

気勢をあげていた。

 この日のうちに組織

『パリ革命委員会』

が出来上がり、

赤毛のダニーが、

委員長におさまった。

スローガンは、もちろん

『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』

だった。

そして、パリの街に出て、

一般市民に呼びかけた。

ソルボンヌのパリ大学では、

赤毛のダニーが演説し、

同志は増えていった。

 四月には、各企業の組合が、

この『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』

のスローガンに同調し、

ソルボンヌ大学側のカフェ・マルン

という下町の労働者が

よく利用する店に集合して、

五月三日に

ゼネストと大行進を予定した。

 ド・ゴール大統領と側近たちは、

この時点で、

自分たち政府が

一年後に転覆するなど

夢にも思っていなかった。

ただ一人、

気にしていた人間がいるとすれば、

パリ警察の署長ぐらいで、

彼は、暴動によって自分の首が

飛ぶことに身震いしていた。

なぜなら、北ベトナムとアメリカが、

長く続いたベトナム戦争を

終わらせるために、

このパリで、第一回の和平会議を

五月に開く予定であったからだ。

 署長は、四月中旬に、

内務大臣に電話し、四月下旬に、

ナンテール大学を閉鎖することを

申し出た。

内務大臣は、

「ド・ゴールにそのうち話してみる。」と

軽く答えて電話を切った。

内務大臣の頭の中は、

ただただ『ベトナム和平会議』の

ことしかなかった。

 パリの街は、日一日と燃え、

カフェテラスでの話題はすべて、

五月三日に集中した。

大学の壁から街の空間には、

五月三日のゼネストと大集会・

大行進が呼び掛けられ、

『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』

と書かれてあった。

 四月下旬。

 パリ警察の署長は、

内務大臣に二度目の電話をしていた。

大臣は、前回とは異なり、

事態の深刻さに

やや気付いてきたらしく

言葉数は前回よりも

多くなっていたが、

ド・ゴールの曖昧な返事の

板挟みに立っていた。

ド・ゴールの頭の中は、

やはり『和平会議』と

『ルーマニア』公式訪問だけだったので、

内務大臣にこう伝えていた。

 「この件は、君の裁量にまかせる。」

 この意味深長な言葉を、内務大臣は、

どう理解すべきかに悩んでいた。

 署長は、内務大臣に

次のようなことを言った。

 「大臣閣下、

学生は付け上がっております。

大学を閉鎖してしまえば、

頭も冷えると思います。

思い切って……。」

 内務大臣の頭には、

自宅の壁に貼られた、

にがにがしいスローガン

『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』

が、回転し始めた。

『……目を覚ませ!』か……よし、

目を覚ましてやろう!

彼は、署長に命令した。

 「よし、署長!ソルボンヌ大学を

閉鎖しろ!」

 署長は、内務大臣の唐突な言葉に

びっくりした。

 「ソルボンヌをですか?」

 「そうだ。後は君に任せる。」

 電話は冷たく切れた。

署長は不愉快だった。

今回の中心地は、

パリ郊外にあるナンテール大学だ。

『パリ革命委員会』もそこにある。

それがパリ中心の下町にある

ソルボンヌ大学を

閉鎖しても無意味だし、

それよりも下町に住む

労働者に影響を及ぼす。

彼らが全員参加すれば、

もはや手の施しようもない。

内務大臣に、電話し直そうか、

と思ったが、

あの冷淡な声を思い出して身震いした。

『……君に任せる』なら、

やはり、……。

署長は、電話のダイヤルを、

ソルボンヌではなく、

ナンテール大学に回した。

そして、学長に、

内務大臣の言葉の

『閉鎖』という言葉だけを伝え、

数日間の猶予を置き、

その間に『パリ革命委員会』を

解散させ、

学内が収拾されなかった時には、

機動隊を導入することを伝えた。

 三十日。

 ダニーは学長に呼び出され、

「ナンテール大学を占拠し、

学生を誘導し、

かく乱した罪で、

退学・追放する。」

と、言い渡された。 しかし、ダニーにとって、

もはや「ナンテール大学」には、

用はなかった。

パリ中心に近い

「ソルボンヌ大学」の方が、

『革命』には、好都合だった。




 五月一日。

 赤毛のダニーの『パリ革命委員会』は、

ナンテールの丘を下り、

「ソルボンヌ大学」に行進した。

彼らは口々に叫んだ。

彼らのスローガン

『むなしい自己満足から、

目を覚ませ!』から

『ド・ゴールを引き下ろせ』・

『自由と平等と平和をよこせ』などだ。

 ソルボンヌ大学に到着すると、

彼らは、盛大な拍手で迎え入れられた。

ダニーは高らかに宣誓した。

「パリ革命委員会を

ソルボンヌ大学に置き、

五月三日の

労働者のゼネストに参加する!」

 大歓声が、パリの街に響いた。

 このことは、

無論、パリ警察の署長の耳に入っていた。

署長は、

ダイアルをソルボンヌ学長に回し、

伝えた。

 「内務大臣の命令により、

明日、大学を閉鎖する。」

 そして、デスクに肘をついて

頭をかかえた。

 あの時ナンテールの学長に

電話したことの間違いを恨み、

明日の機動隊導入が成功する事を、

神に祈った。

が、普段、教会に足を踏み入れた

ことのない署長の祈りなど、

神に届くはずもなかった。

 ソルボンヌの学長は、署

長の電話でうろたえ、

事務局長に電話し、

事務局長は、事務長に電話し、それは、

その日の夜には、

ダニーの耳にも入っていた。




 五月二日。

 バンヤニヌの森の紫がかった空に

太陽が昇り始めた時、

ソルボンヌ大学の周りには、

学生の手で、

巨大なバリケードが

築き上げられていた。

各地から三日の

『ゼネスト大行進』に参加するために

やって来た人々は、

ソルボンヌ大学のバリケードを見て、

百八十年前の『フランス革命』の時に

市民が築いたバリケードに、

自分が参加しているような

錯覚をおこした。

フランス人にとって、

義務教育五年の間、

フランスが世界に誇る民主主義の

第一歩である『フランス革命』は、

いやというほど教育され、

『自由・平等・友愛』が身に付いていた。

三色旗が、ソルボンヌの屋上に

翻(ひるがえ)るのを見て、 

学生も一般市民も労働者も、

興奮した。

生まれてこの方、

三色旗がこれほど美しい色彩を

持っていることを、

一度も身体で感じたことが

なかったからだ。

このタイム・マシーン的錯覚によって、

人々は

、ただ一カ所だけ開かれている、

北側の門から、

中に吸い込まれていった。

 昼過ぎ、数万人に膨れ上がった

ソルボンヌ大学は、

赤毛のダニーの演説に耳を傾け、

喝采(かっさい)し、

奇声を発し、興奮の坩堝(るつぼ)と

化していた。

労働者の中には、

元フランス領のアルジェリア人や

モロッコ人やナイジェリア人、

それに現在もフランス領の

ポリネシア人などがいたが、

ダニーの語学力によって、

それらの人々の母国語も交えて

演説されたために、

全員が一体になって

この『パリ革命』に熱中しだした。

 パリ警察の署長は、

いつもより早く署に赴いていたが、

ソルボンヌのバリケードの報告を聞いて

びっくり仰天し、

機動隊に待機させ、

ソルボンヌの学長に電話した。

 が、学長は、ソルボンヌの

数万の人々の渦の中で

捜しようがなかった。

 署長は、思い切って、

内務大臣に三度目の電話をした。

ところが、大臣のガミガミ声が、

彼の脳天を突き刺した。

 「署長!

君の裁量はどうなっとるんだ!

ド・ゴール閣下は、

非常にご立腹だ!

すぐに実行せよ!」

 受話器を投げ捨てた音がしたため、

署長の脳天をまたも突き刺した。




 五月三日。

 早朝、ソルボンヌの周りに、

二十個師団(約二千人)の機動隊と

二十台の放水車と装甲車が配備された。




 午前八時。

脳天に二つの大きな穴が

空いているためか、

空気の漏れた署長のマイク放送が、

ソルボンヌ大学の城壁に向かって、

悲しく響き渡っていた。

バリケードの中の学生や労働者や

一般市民には、

それは、全く聞こえなかったし、

たとえ聞こえたとしても

無視されてしまった。

署長は時間を区切り、

十二時までに明け渡さない時には、

『突入!』することを告げて

マイクを切った。


 十二時が迫るに従って、

パリ市民やゼネストを

行っている労働者達は、

ソルボンヌに向けて集合し、

ソルボンヌの中の数万人を中心に、

バリケードの外側の二千人の機動隊、

その周りに数十万人が取り囲んだ。

無論、セーヌ川を越えた

ノートルダム寺院や

ルーブル美術館辺りも、

人でごったかえしていた。




 十二時前。

 ダニーは、マイクを取って演説をし、

最後に、無抵抗主義を唱え、

いかなる時にも暴力は

使用しないことを訴えた。




 十二時。

パリ市庁舎や各大寺院から

鳴り響きわたる鐘が合図で、

パリの街全体が静寂に包まれた。

犬の鳴き声一つない静寂だった。

署長は、震える手でマイクを取った。

声は、やはり頭から

空気が抜けたようになっていた。


 「約束の十二時が、過ぎた。

内務大臣の、指令により、パリ警察は、

これより、ソルボンヌ大学に、入る。

抵抗する者は、すべて逮捕する。

機動隊、突入せよ!」


 署長は、汗びっしょりの手から

マイクを置いた。

この状況は、テレビの生中継で、

フランス全土に放送されていた。

装甲車のエンジンが鳴り進行し出して、

最初の一撃が、

バリケードにぶち当たった。

機動隊員は、黙々とバリケードを

撤去し始めたが、

内側から何の声も音もしなかった。

北側の門が開かれて、

隊員の見たものは、

数万の人間が腕を組んで

座っている光景だった。

この後、この数万人をソルボンヌから、

ゴボウ抜きし終わるのに

十時間を要した。


 署長は、午後十時過ぎ、

内務大臣に由緒ある大学を

奪い返したことを電話で報告した。

そして、最後に数名の学生を逮捕し、

その中に

『赤毛のダニー』という

首謀者がいることを、

付け加えた。






 このあと二ヶ月間、

あらゆる労働者のゼネストが続き、

パリの街は、ゴミの山で埋まり、

ド・ゴール大統領は、市民に、

『国民投票を近いうちに行うこと』と、

『給料を二十五パーセント

上げること』を約束して、 『パリ革命』は終わった。




 ダニーは、

五十日の実刑を宣告され、

ゼネストが終わる頃に出獄した。

が、その後、

パリで彼を見かけた者は、

誰もいなかった。



 



     3  闇



 突然の停車で、

ダニーは、

恋人の手から振り落とされた夢から、

覚めた。

別れの挨拶もせずに

ソ連に来たことが悔やまれ、

夢に恋人が現れたのであろうと、

朦朧(もうろう)とした頭で考えた。

 貨物列車の後部の扉が開かれ、

栗須とダニーは、

夕焼け空の大草原に降り立った。

朝と同じように、

黒パンと塩味のスープ入りの

缶コップを受け取り、

柿色に輝く夕焼け空を眺めながら

排尿をしていた。

 その時だった。後方の車両から、

わめき叫ぶ声が起こり、

全員がその方向を見詰めた。

薄暗くなりつつある荒野の中に、

二人の人影が地平線に向かって

走っているようだった。

脱走である。

 「アスタナヴッチェ(止まれ)!」

 大声で叫んだカーキ色は、

自動小銃を撃ちまくった。

二人の人影の前後に砂煙が立った。

百人ほどの囚人達が、

一斉に叫びだした。

 「パブィストリェーエ(急げ)!」

 騒然とした雰囲気だった。

栗須は、ふと横のダニーを見ると、

彼も何かを叫んでいた。

栗須も思わず日本語で叫んだ。

 「に・げ・ろ!」

 二人の人影は、

夕闇の地平線に小さくなって行った。

が、五百メートル程度後を、

四~五人の銀色に光る自動小銃を持った

カーキ色が、やはり追いかけていた。

一人のカーキ色が、小さい岩に乗り、

自動小銃を撃ち続けた。

炎と爆音が荒野に鳴り響き、

遙か彼方に、

赤い砂煙が起こっている。

 その時、すぐ横のカーキ色達が、

一斉に自動小銃を空に向けて乱射した。

すさまじい金属音と爆発音が、

灰色になりかけた夕暮れの大空に

轟(とどろ)き、

囚人達は、赤地にひれ伏した。

 栗須とダニーは、

同時に腹ばいになった。

赤い大地は、まだ、

暖かさをもって栗須の頬に

抱擁(ほうよう)した。

耳の中は、鼓膜が破れたかのように

金属音が鳴り続けている。

この時、『生きる喜び・生きる望み・

生きていく希望』のようなものが、

大地から感じられた。

この時の赤い大地の温もりは、

真っ白な氷の大地に変わる、最

後のエネルギーだった。

 その後すぐに、

囚人達は整列させられ、

貨物列車に乗り込んだ。

 その夜は、誰も話すことなく、

深い闇がいつまでも支配していた。

囚人達は、これからの自分の人生を

想像するかのように、

闇に身を置いていた。

あるいは、

赤い大地と真っ黒な大地のはざ間を、

走り続けている二人の囚人の未来を

想像しているようでもあった。

 栗須は、隣のダニーの顔を

一瞥(いちべつ)した。

ダニーは、

深い闇の中をじっと見開いた目で、

にらみ続けている。

ダニーの胸には、

あの自動小銃の金属音ではなく、

何か違ったものが、

轟(とどろ)き初めているようだった。





     『第五章ラーゲルの吹雪(ふぶき)』に続く

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第一章   白夜のささやき

        (公開中)


第二章   カットグラスの輝き

        (公開中)

第三章   裁き

        (公開中)

第四章   轟(とどろ)き・・・

(ダニーの話)

        (公開中)

第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

        (公開中)

第六章   殺人の痕跡・・・

(ドクター荻野の話)

        (公開中)

第七章   「アッシュ」の手引き・・・

(ビルの話)

        (公開中)

第八章   偽装の閃(ひらめ)き

        (公開中)

第九章   ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

        (公開中)

第十章   若き紅衛兵の嘆き

        (公開中)

第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

(五人めの妻の話)

        (公開中)

第十二章  ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

        (公開中)

第十三章  飛べ!低く飛べ!・・・

           (チェ・ゲバラの話)

        (公開中)

第十四章  リビアンスター

(リビアの星)

        (公開中)

パリ

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