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「小説」の見出しページ



丸山洋續

『蓮(はす)の花に蜘蛛(くも)の糸』

 

     

  (萩原先生追悼記) ・・・・マルタン





















         

 平成23年9月9日の朝、東京行きの新幹線の中で、旧友の尾形先生からの電話を受け取った。

「萩原先生が、突然自宅で亡くなられた。」

という内容だった。

私は、その年の三月に四十年勤める東大谷高校を定年(六五歳)退職し、スケート(日ス連・大阪府連)関係の「普及部」の世話役で、東京の会議に出かけている時だった。

思えば、この四十年間、東大谷高校で萩原先生と出会いがあってこそ、教師としての心構えが出来、先生と共に生活を楽しみ、人生を謳歌した、と言っても過言ではない。

 平成18年、腎臓の癌手術をされた先生は、昨年(23年)には元気になられ、七月には、一緒に真新しいアベノの「キューズモール」でビールを飲んだ。

お元気だった。いつものように饒舌(じょうぜつ)になられた。

ただ、次のようなことを言われたのが、耳の奥に残っている。

 「手術以後、身体のどこかが痛いと、ガンとちゃうかな~~と不安になるねん。そやから、家族に『死ぬ前に、使えるお金は、全部使ってええか?』言うてん。

ホンなら、『ええよ!』言うてくれたんや。そやけど、そんなん全部使えるわけないけど……」

 「そうですか。だけど、大丈夫!先生は元気ですよ。」

私はそう述べて、励ました。

 まさか、その時には、二か月後に亡くなられるなど、思いもしなかった。

先生には、何か予感でもあったのだろうか?



 新幹線の座席で、目を閉じながら、先生との出来事をいろいろ思い出した。



 通勤が「南海電車」であったことが、幸運だった。

 赴任して一週間後に南海線通勤の先生方が、着任祝いの歓迎会を開いてくださった。

初めての飲み会は、天下茶屋商店街の中の「養老の滝」だった。

いつも、おでんと焼き鳥と魚の焼いた匂いが漂っている庶民的な店で、メンバーは、英語の黄地、社会の井上、そして数学の萩原の各先生だった。

皆さんは、酒豪だった。私は、その当時はアルコールはめっきり弱く、ビールなら小瓶一本で寝てしまった。

先生は、「無理して飲んだらあかんで。」と、ゆっくりペースを進めてくれた。

そこで、私は、食べることを中心にして、話し仲間に辛うじて参加していた。

この時食べた「しめさば(鯖のきずし)」が、大変美味しかった。

青緑色の背と銀白色の腹面の色艶がよく、口に入れると、ややとろみがあり、一人で一皿全部食べた。

「しめさば」と、先生方の「東大谷談義(女子高先生の心得)」とが、私を快く酔わせてくれた。

だが、家に帰ってその夜中から体中に痒(かゆ)みがおこり、朝まで這い回った。「じんま疹(しん)」だった。

腐(くさ)るちょっと前の「しめさば」は最高に美味しい、と言われていたが、本当に美味しかった。

腐ったなら臭くて食べられない。腐るちょっと前が美味しいのだ。事実、美味しかった。

かくて、赴任一週間で、通院のために遅刻出勤と相成った。

   後に先生から、

「サバに一回あたったら、免疫ができて、次からあたらへんわ。」

と御教授を受けた。本当か嘘か。

それ以後「しめさば」が好きになった私は、一度もあたっていない。



   東大谷高校に就職して1年目の春休みに長野県の「新穂高」に誘われて出かけた。

温泉・登山で有名で、新穂高温泉「ロープウエー」から西穂高の手前の上高地が見下ろせるあたりまで行った。

太陽の光線に当たって、キラキラ光る雪山の肌の美しさをそのとき初めて知った。

この時から、山の歩き方、リックサックの荷物のつめ方、ホェブスの火の起こし方、地図の見方、など登山で必要なことを、やはり、先生から教わった。

その時、登山に必要な靴や衣服をそろえ、後に「登山クラブ」のサブ顧問にもさせていただき、熱中した。

 「新穂高温泉」には、社会科の今井先生の弟さん(「Bさんと呼んでいる」)の勤務先「中部工大」の「山の宿舎」があり、宿泊させていただいていた。毎年、まるで「春夏の避暑地の別荘」のように使用させてもらっていた。

メンバーは、今井AB・黄地・萩原・丸山の五人だった。後に英語の尾形先生も加わった。

また、登山の大ベテランの指導員ででもある国語の横山先生や、大学時代から根っからの山好きで、東大谷登山クラブのチーフ顧問の数学の矢森先生も加わったこともある。

 後々、先生が御結婚なさってから、5月の連休に、連続の4日間の休みができ、先生ご夫妻と東大谷高校の職員数人で、新穂高温泉・上高地から戸隠の水芭蕉のある自然公園や「中社」に出かけたことがある。

新婚ほやほやの奥さんは、先生のリックサックの紐の先をチョコンと持って、可愛らしく歩いていたのを思い出す。



 奥さん(我々は「ケッコタン」と呼んでいた)のご実家は、松原市にあり、お二人の婚約時代から、何度もおじゃました。

柿の木のある百坪ほどの大きな庭で、小学校の校長先生で実直そうなお父さんが、色鮮やかな花を植えておられ、畑を耕しておられた。

また、小学校の先生で快活なお母さんとやさしいおばあさんが、おいしい食事を御馳走してくださった。

 先生は、恥ずかしがり屋のところがあり、泊まりに行くときに決まって私を誘った。

私は、その時、母を癌(ガン)で亡くした時だったので、家庭料理に飢えていたから、いつもお伴させていただいた。そして、囲碁や将棋やトランプなどを楽しんだ。

 その後光栄にも、お二人のご結婚披露宴の司会を仰せつけられた。

仲人は、宗教の丸川先生である。(余談であるが、丸川先生の仲人は、黄地・萩原・丸山・尾形と続く。) 私は、友人の披露宴の司会をなんどもしていたので、緊張はない、と思っていた。

が、学校関係の先生方ばかりの披露宴ともなると逆に緊張して、「食べる」の敬語の「召し上がる」と、「着る」の敬語の「お召しになる」を間違えて、「お食事を、お召し上がりください」と何度か、言っているのを、後で、テープで聞いて赤面した。

先生に謝ると、

「気にすな、気にすな。誰でもある。それより、ご苦労さんでした。ありがとな。」

とおっしゃった。先生のやさしさに、ほっとして癒(いや)された。



  先生は、それまで住吉の中学校前のアパート生活をしておられた。

六畳一間の一室で、トイレは共同、風呂なし。

このアパートには、いつもお世話になった。宴会で遅くなると、何度も泊めていただいた。

部屋は、いつもきれいに掃除され、整頓されていて、先生らしいと思った。



 音楽の小林先生がこの近くの住吉大社の西側のマンションに、体育の井藤先生が住吉大社の側の団地に転居された。

私は、泉大津に住んでいたので、旧国道26号線を北に、泉大津から住吉まで12キロ行き、まず、小林さん、次に井藤さん、そして先生を、愛車のボローバード(ブルーバードが古くなって、皆さんからそう呼ばれていた。)に乗せて、

岸里から丸山通り、共立通りの学校まで通っていたこともあった。



 御婚約後、結婚式の日取りが決まってから、「金剛」駅に新居を探しに行った。

ここは、黄地さんの住まいがあり、地理的に詳しい。金剛駅から右回りに回り、5分程のところに、ハイツを見つけた。

一棟は建っていて、二階建て八室には人が住んでいたが、その向かえに同じ棟を建てている。

先生は、すぐにそれに決め、家主さんに申し込まれた。

が、その当時、物価上昇のバブルで、セメント・コンクリートが品不足になって、出来上がるのが遅れ、結婚式より約二週間後になりそうだった。

お二人は、その間、住吉のアパートと松原の実家との二重生活をなさった。

奥さんが気の毒だった。

二週間後に転居が決定し、アパートの萩原先生の荷物を、金剛団地のハイツに運んだ。

 このハイツは、玄関を入って、お風呂・トイレ・台所・そして畳の二間があった。ようやく新婚生活だ。



 一年後、お嬢さん(ミヨちゃん)が誕生した。

その日は、「PTA懇親会」で、難波にいたが、終わり次第病院に向かった。

自宅に近い病院で、先生は、奥さんに会いに病室に行き、その間に黄地さんと私は、ガラス越しにかわいいお嬢さんに出会った。

次の年だったと思うが、かわいい次女のミキちゃんが誕生なさった。

後に、お二人のお嬢さんの写真は、九州のどこかのホテルで偶然出会った「高橋英樹」さんと、先生の御家族と一緒に撮られた写真を、何度か見せて頂いた。

定期入れの中に大事に入れておられ、家族を想う気持ちが伝わってきた。



「なぜ、数学の教師になったのか?」

と尋ねたことがあった。

が、先生は笑いながら、言った。

「女の子は、数学が苦手な子が多いので、教師の中で数学の先生が一番好かれるからな!」

初めは、その意味が分からなかった。

が、試験前の放課後になると分かった。

なるほど、数学の先生の周りには、生徒がワンサカと集まり、先生は、懇切丁寧に問題集を解かれ説明していた。

納得した。数学の先生は、女の子に一番好かれる、ことを。


 担任になったら「学級日誌」をつける事を教えてもらった。生徒の状況がつかめるからだ。

先生が言った。

「担任になったらな、クラスの三分の一の生徒が味方になり、三分の一が中立で、後の三分の一が反対派になることが、多いで。

これは、この世の常や、どんな社会でもそうや。そやから、大事なことは、自分の『信念』を持ってやっていけば、必ず、上手くやって行ける。」

このアドバイスは、ありがたかった。すぐに「学級日誌」を回し始めた。すると、そこには、それぞれの生徒の心情が書かれてあった。先生に感謝した。



  「釣り」の事も触れておきたい。

「釣り」は私が誘った。

車の後ろに竿を一本入れていた。

学校の帰りに、車で堺の釣り屋に行き、エサや道具を買い、堺の港で釣りをした。

先生も黄地さんも私も子供時代に釣りをしたことがあり、意気投合して釣りが新しい趣味になった。

土曜の放課後なら学校を出発し、26号線国道を南下し、釣り場を探して夕方まで釣っていた。

それ以後、英語の尾形先生が参加し、四人が「投げ釣り仲間」となり、カレイやキスなどを釣りだした。後に、社会の井之元先生が加わり、五人になった。

車の中には、釣り道具だけでなく、登山用のテントを常時積んでいたので、海岸にテントを張り、寝泊まりして釣りをしていた。

先生は、何事にも研究熱心で、釣りの週刊誌や月刊誌をいつも購入されていた。

そして、エサの付け方や、針とハリスの括り方や、魚によって異なる道具やテクニックなどをチェックした。

私は、その情報を先生から教わった。

 どこに行くかも、やはり、先生の情報で決まった。黄地先生は、いつも「どっちでもええで。」とおっしゃり、私は、いつも「先生に任せます。」だった。

尾形・井之元各先生が加わってからは、ますます熱中した。

本当に、よく釣りに出かけた。

南港・高石・二色浜・貝塚・箱作・みさき公園・加太・和歌山・和歌浦・海南・有田・由良・御坊・南部・白浜・串本・新宮・淡路島の北淡・洲本・南淡・四国の鳴門・阿南・日和佐・牟岐(むぎ)………。

先生の情報通り、大概、釣れた。釣った魚を、すぐ三枚におろし、ワサビ醤油で刺身にして食べ、テントの中でそのままごろ寝し、上機嫌だ。

服装は、登山の時と同じで、汚れても気にしないものだった。家に帰って、洗濯物で奥様方には大変御迷惑をお掛けしたと思う。が、我々は、上機嫌だった。


 後に、先生は、義父の斎藤先生やその御長男らと、船でタイ釣りにも出かけられた。

その影響で我々も、「船釣り」に挑戦し、イサキ・タイ・サバ・アジなどを大量に釣った。

映画の「釣りバカ日誌」もよく上映されていたので、ますます熱中した。

成果が上々だったのは、手先の器用な先生の餌の付け方や引き揚げ方のコツのアドバイスと伝授が、いつもあったからだと思う。



 「手先が器用」で思い出したが、先生は、国立の熊本大学の教養学部出身で、中・高校だけでなく、小学校教諭の免許証も取得されている。

小学校の教員は、ピアノ(オルガン)が弾けなければならない。

先生は、大学生になってから、練習してテストに合格し単位を取ったそうである。

時々、飲んだ後で、両手の小指と人差し指をテーブルに置いて、「指ダンス」を見せてくれた。

音楽に合わせて人形のように指を器用に動かした。

小さな子供さんなら大喜びするだろう、と思った。



 この五人の「釣り仲間」は、「相撲観戦仲間」でもあった。

三月の大阪場所、難波府立体育館。

尾形さんに前売り券を手配してもらい、毎年、真ん中あたりの日曜か祭日に観戦しに行った。

昔は、社会科の池田先生も宗教科の丸川先生も総勢十人位で行ったこともあった。

五人は必ず参加していた。(黄地さんが亡くなられてからも、四人の相撲観戦は続いていた)。

昨年(二三年)は、八百長問題で大阪場所は中止になったので、先生は残念がっていた。

先生は、「豊真将(ほうましょう)」のファンだった。礼儀正しさが気に入っておられた。豊真将が登場すると、ビール缶片手に、必ず私に言われた。

 「マルタン、豊真将を見ときや。ホンマに礼儀正しいで。土俵に向かって、きっちり礼をし、両手を足の太ももの脇に伸ばして……、ほれ、ほれ、ほれなあー、あれが、土俵に敬意をはらった礼儀や!!」

 毎年、豊真将が出場すると繰り返した。私は飽きもせず、それに相槌を打った。

 一度、相撲観戦中に、こんなことがあった。

 我々の桝(ます)席の横の二桝を、着飾った水商売の女性が五人と、年配の男性が一人、歓声を上げて応援していた。

しかも、この桝席のちょうど向こう正面に二桝女性が七~八人座り、こちらに手を振っていた。

これは、あきらかに、年配の男性が、十数名の女性を連れてきているのだ。桝席四つを借り切ってである。

(ちなみに、桝席は、お弁当・お酒・その他などのお土産がついて、一人三万前後する。)

 私は、あっけにとられていたが、先生が、ポツンと言った。

 「男は、これ位の甲斐性(かいしょう)ないとあかん。俺もいつかやってみたい!!!」

 私は、九州熊本男児の親分肌の意気込みを、見た想いがした。



 相撲観戦が終わると、難波の「治兵衛」でいつも食事をした。

先生が話し役で、我々は聞き役にまわった。

先生は、物知りであった。内容は、スポーツ・政治・経済・教育・社会・芸能など、多岐にわたっていた。

情報は、新聞やテレビや雑誌等から得ておられたようだったが、それを流暢(りゅうちょう)に話されるのがすばらしかった。

昨年の七月にお会いした時が最後になったが、三月の地震・津波・原発の状況を一部始終話され、私たちも情報は持っていたが、的確にまとめておられて、相づちを打つのが精一杯だった。



ところで、「生活指導」のことを思い出した。

生活指導部は、喜田先生と先生の二人が、ほぼ二十年前後の間ペアーを組まれて活動なさった。

この二十年は、日本の社会全体が大きく変化していく時代で、日本の国がバブルの華やかな時代から、バブル崩壊の時代へ、そして崩壊後失われた十年にあたる。

日本も国民も社会もすべてが素早く変化し、生徒の気質や環境が激動していた時代だった。

特に女子は、その真っ直中にいた。

毎年、大阪府の生活指導委員会からの報告を、我々に聞かせて頂いたが、想像がつかない内容が、数年後には、全体の高校生に広まっている現状を考えれば、お二人の先生の仕事は、並はずれたことであったと思う。

ただ、晩年のお二人は、はっきりと「確執(かくしつ)」があった。

何がどういうことでそうなったのか、ご当人同士しか分からないので、ここでは触れないでおこう。

私自身から見れば、お二人は案外同じ性格を持っていたのではないか、と思う。

たとえば、自分の意見を言い出したら、後には絶対に引かない……、とかいろいろある。

その性格が枝分かれし、ふと出会ったのが生活指導で、相手を見ると、どこか自分自身を見ているような類(たぐい)ではないかと思う。

私は、お二人とは全く異なる性格なので、そのような気がしている。



 先生と私との共通の「好み」は、「石原裕次郎」と「パチンコ」だった。

先生は、石原裕次郎こと「裕ちゃん」の話をよくした。

映画は「嵐を呼ぶ男」から「黒部の太陽」、そして、石原軍団のテレビなどを見ていて、話題にした。

私は、大阪の「難波」育ちで、父が映画会社の株を買っていたので、「株主優待券」があり、ほとんどの映画(「日活」)を見ていた。

だから、年齢は二つ半違ったが、話はよくあった。

 それから、「パチンコ」は、「ストレス解消」のために、よくやった。

私は、「アベノ会館」の店長と知り合いだったので、ありがたいことに、よく勝たしてもらった(店長の遠隔操作か?)。

しかし、先生は、店長とは知り合いでなかったが、よく勝たれた。

やっぱり研究熱心であった。

先生は「勝負師」的なところがあって、台を選ぶと勝つか負けるか徹底してやられた。熱中し、フィバーした。



野球は、巨人の熱狂的ファンだった。

昔、巨人の監督だった「川上さん」が、先生の故郷の熊本県出身だったので、巨人ファンになった、とおっしゃっていた。

英語科の市居先生も巨人ファンだが、二人で東京ドームまで何度か応援に行ったことを聞いてびっくりした。

関西では圧倒的に多い阪神ファンの中で、先生は怯(ひる)むことなく巨人を応援しておられたことに敬服する。



 先生は、昭和十八年十月、男四人兄弟の次男坊としてこの世に生を受けた。

お母さまが大谷学園の卒業生であったその御縁で、熊本大学の教育学部を卒業後すぐに赴任なさった。

が、着任されてすぐに、お父上が亡くなられた。大変な悲しみだっただろう。

熊本の実家のお寺の住職は、お兄さんが継がれた。

熊本のお寺の話で、いつも思い出されるのは「蓮の花」の話だ。



 夏のお盆は、お寺さんにとって、一年の中でも一大イベントであるが、子供たち四人にとっても、大忙しだった。

もちろん、大勢の檀家さんがいらっしゃるのは当たり前だが、子供らは、別の任務も言い付かっていたそうだ。

  それは、朝四時に起きて、近くの池に行き、そして、蕾(つぼみ)の蓮(はす)を摘むのである。

もちろん、それを仏壇に供えるのだが、実は、ある工夫(くふう)をしておくのだ。

工夫とは、「蓮(はす)の花の蕾(つぼみ)」に「蜘蛛(くも)の糸」を巻き付けるのである。

透明の蜘蛛の糸の巻きつけが、少ない目のものや多い目のものなど、いくつも作っておく。

「なんで?」

 それは、檀家の人々が来て、御経が始まった頃から、開花しようとする力によって、蓮が「ポン」と音をたてて咲き始める。

それまで、御経の音だけだったのが、突然、仏壇から「ポン」と本当に音がして、赤や桃色の蓮が咲き出すのだ。

檀家さんは、顔を上げて仏壇を見つめ、「ポン」とまた咲くと、驚き、偶然の「蓮の開花」に魅了される。

お年寄りは、両手を合わせて信心深く御経を読まれる。

 「この世の中は、こんな風にちょっとした工夫をすると、実際より素晴らしいものになると思うねん。

檀家さんも親父も喜んでくれるし、それを廊下で見てると、こっちもまた嬉しなる。

『喜びの相乗効果(そうじょうこうか)』やなあ。」

 私は、この話を聞き、その様子を想像して感動した。

そして、先生の話術に感服した。

いつか、小説に書きたいと思った。





   「シナガワ……、しながわ……、品川……。」



新幹線のマイクの声で、私は、我を取り戻した。

「日本スケート連盟」の本部は、「品川」から山手線に乗り換え、六つめの「原宿」にある。

急いで降りる用意をした。



 「蓮」の話をなさった時、先生はこんなことを言われた。


「仏教では、亡くなったらすぐにあの世、浄土(じょうど)、冥土(めいど)、極楽、に行けるねん……。

 初七日や四十九日(中陰)とかに、あの世に行くと言われているけど、仏教では、亡くなったらすぐに行く、と親父から聞いた。

……教師になった年に、親父はガンで死んだけど、九州に帰る列車の中でずっと泣いたな……。

マルタンも、赴任してすぐにお母さんを亡くしたけど、泣いてたな……。気持ちがよう分かったわ……。

死んだら『地獄』やなくて『極楽』に行きたいな……。

極楽浄土に……。

いろんな色のきれいな蓮が、いっぱい咲くねん……。

なあ、マルタン!そこやったら行きたいなあ……。」


 「そうです。やっぱり極楽です。

極楽浄土に行けるように、生きてる間に『品行方正(ひんこうほせい)』でおらんとあかんな……。ねえ、先生!」

 そう答えた私は、手を合わせて、

 「南無阿弥陀仏(なもあみだぶ)、南無阿弥陀仏(なもあみだぶ)。」

 と唱えて、笑った。



あの時先生は、  『亡くなったらすぐに、あの世、浄土、冥土、極楽、に行けるねん……』

 と言われた。

そうすると今朝亡くなられた先生は、今はもう、あの世というか、冥土にいるのだろうか?



先生は、普段、人と別れるときには、

「さよなら」とは言わなかった。

いつも、

「そしたらまたな~~。」

と言われた。

「そうしたら、また(会おう)な~~。」の意味だ。



先生は、たった今、耳元で、次のようなことを言われたような気がしてきた。



「マルタン、そしたらまたな~~。


先に行っとくで~~!


『蓮(はす)の花に蜘蛛(くも)の糸』を巻いて、


『枡席(ますせき)』を用意しとくわ!



 『ポン』と音を立てて、きれいに咲くようにしとくで。



丸川さんも黄地さんも池田さんも先に行ってるよってに、寂しいない。



そしたらまたな~~。」



 そこで、 私もこう答えて品川駅に降り立った。



  「はい、先生。



そのうちに、行きます。



待っててください。



そしたらまたね~~。」



おわり



  

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