朝六時に寒さの為に目覚めると、スペインの広大な大地が、目に飛び込んできた。広い。実に広い。
永遠に、雑草と赤土と所々に細長く生えた樹木と、小山と大小の岩石が、地平線まで続く。しかし、「
不毛の大地」と呼びえる、広漠な大陸なのだ。
昨日、十三時四十五分に、人間が入り乱れた雑踏の街「パリ」の、オステルリッチ駅を出発した私は
、十八時間も列車に乗り続け、闘牛とフラメンコの街「マドリッド」に行こうとしているのだ。フラン
スとスペインの国境の町「イルン駅(九時三十分着)」で、スペインの列車に乗り換えた(パスポート
を見せて、スタンプをパスポートに押してもらった)のだが、ほぼ列車に缶詰状態だった。
私は、列車の絶え間ない振動には、毎日の通勤で無頓着になっていたが、寒さには、決定的な弱みを
持っている。
たとえば、ロンドンでは、雨に降られ、霧に包まれ、八月なのに、その寒さで震えあがった。ロンド
ンっ子は、真夏なのにオーバーコートを着ていた。
パリでも、ユースホステルで、寒さのために、早朝目覚めてしまったし、オランダのアムステルダム
でも、寒さのために夜は眠れなかった。旅行客は、毛皮のコートを着ていた。
この八月の真夏、しかも、太陽の国であるこのスペインで、寒さに攻められるとは思いもしなかった
。
ここは、やはり大陸なのだ。昼は強烈に暑く、夜は、深々と冷え込む大陸なのだ。
そのことは、
マドリッドの街に着いてからも、まざまざと証明された。
マドリッドに八時前に着いた私は、1人225ペセタ(当時1ペセタ=5円で1,125円・現在約10ユーロ)の二食付き高級ペンションを借りた。
高級と書いたが、事実「高級」で、たとえば、ビール小瓶6ペセタ=30円、大きなソフトクリームが5ペセタ=25円と物価が安い。現在のスペインもEUに組み込まれたが、ギリシャ・ポルトガルに続く物価安だ。EU本部は、この三国の膨大な赤字国債に頭を悩ましている。
それはともかく、私は、シャワーを浴びて、すぐに「蚤(のみ)の市」に出かけた。
道路いっぱいに、骨董品から日常品、それに珍妙品まで、あらゆる品物を並べた店が、いく辻も続いている。客はそれを、見・いじくり・ひやかし・くさし・買い・ほっつき歩くのである。
私もご多分に漏れず、そうしたのであるが、その内に、どうも頭がぼんやりし、目がかすみ、足がよろけだした。私は、朦朧(もうろう)とした頭で、その原因を考えたのだが、それは、まさに、スペインの強烈な太陽だった。
その強烈な太陽は、私の後頭部に、かんかんと照り続けていた。
汗は出ない。しかし、骨の髄まで焼付け、焦がすほどの強烈な太陽である。昼過ぎからは最高潮に達する。
スペイン人は、2時過ぎから4時まで、昼寝の時間と決め込んで、みんな自分の家で寝込んでしまう。
私は、建物の影に入って、しゃがみ込んだ。今朝のあの寒さとはまったく対照的なこの太陽は、まさに、大陸を象徴し、スペインを象徴し、私のそれに対する願望心を象徴した。
ここでなにも、気象学や経済学を書くつもりはないが、闘牛やフラメンコは、あの広漠とした大地や、燃えるような太陽と、無関係であるとは思えない。
ところで、私はこれまで、闘牛について書かれた書物や映画を多く見、読んできたが、それらに対して、納得のいかないことがある。あまりにも残酷性を強調し過ぎであることだ。
納得できるのは、ヘミングウエイで、彼は闘牛に関して、その本質を把握(はあく)しているように見える。だからあれだけ興奮できたのだ。
絵画なら、ゴヤだ。マドリッドの「プラード美術館」にある、十号程の小さなキャンパスに描かれた、闘牛の絵が最高である。
私が初めてこの目で闘牛を見たのは、あの強い太陽が西に傾きだした、その日の五時過ぎ頃だった。
観覧席から下を見下ろした時、牛の背中には矢が数本刺さって、血が吹き出していた。
私は、その日、闘牛場で三頭の牛が殺されるのを見た。
闘牛は、その進行形式が決まっているらしい。
まず、楽隊が音楽を奏で、ファンファーレを鳴らす。闘牛士が数名の介添えの闘牛士を従え登場、そして、一頭の牛も登場する。
牛は、暗い所から、急に明るい所に出されたため、ただ茫然と、あるいは、その時に興奮するとも言われているが、辺りを見回す。
観客は、その時の牛の表情や仕草や大きさや太さで、その強さを批評する。
数人の闘牛士が、赤い布を持って揺らしながら、牛を適当に興奮させる。
牛が突進してくると、身をかわし、手に持たれた矢を、牛の背中に突き刺す。
牛は、その痛みと興奮によって、目の前のちらつくものに猛進する。
それに合わせて、観客の歓声とどよめき。闘牛士は、その度に身体を優雅にかわす。
それが何度か続けられ、背中に刺さった矢の本数が増え、次第に、牛と観客の興奮が、その最もぴったり一致した瞬間、闘牛士は、牛の背中に「剣」を突き刺す。
ところが、こううまく行くことばかりではない。
二頭目の牛だったろうか、闘牛士が何度背中に突き刺しても、土に倒れなかった。
観客は、その闘牛士に「ぶうぶう」とブーイングを鳴らし、牛に対しては、「ブラボー」の賛嘆の声を贈った。
それと同時に、闘牛士が興奮する。
しかし、闘牛士が興奮すれば、彼の負けである。一年に、牛の角で刺されて死ぬ闘牛士が、数名いるらしい。
剣が、牛の背中の窪みから胴体に刺さった時、その剣は、牛の心臓を突き抜けるそうだ。
事実、牛の背中に刺さった剣は、刃渡り一メートルもあるその長さが、すべて、その胴体の中に入り込むのである。そして、牛は、そのまま痙攣(けいれん)を起こして倒れる。
その時の観衆は、全員立ち上がって、闘牛士に拍手と歓声を贈り、彼を最も勇気ある者として称える。
三頭目の牛を倒した闘牛士などは、フェンスを乗り越えて場内に入った百人近い観客に、肩車され、何周も場内を回ったくらいだ。
しかし、それとは対照的に、土の上に横たわった牛は、馬の後ろに括り付けられ、場内を一周して、連れ去られる。
その牛の流れる血によって、かき色の土が、赤く染まり、引きずられたままの円周を描いている。それは、今付いた血だけでなく、何十年ものあいだに染まった色なのだ。牛と闘牛士が、死を目の前にした、戦いの結晶なのだ。
闘牛は、「美」であり、「芸術」である。以前、フランスの哲学者「サルトル」が日本に来て、日本の古典芸術である「能」を見て、「能は、暗示を秘めた美であり、芸術だ。」と述べたことがあったが、闘牛は、それとは、対照的な美であり、芸術なのだ。
そこには、「暗示」ではなく、「行為」そのものがある。
華麗な闘牛士のユニホーム。
真っ赤な布に隠され、時たま稲妻のように光りを発する剣。
茶色というより柿色の、しかも、所々牛の血で染まった土。
強い太陽。
白・赤・黄・黒と色取りどりの服の観覧席の客。
そこから沸き起こる歓声とどよめき。
一瞬固唾(かたず)を呑んだ沈黙。
牛が巻き上げる砂煙。
牛の後頭部と肩の中間にある窪みを見詰める闘牛士の鋭い目。
黒い塊の猛進。
真っ赤な布と黒い塊の接触。
窪みに闖入(ちんにゅう)する稲妻。
窪みから発する血飛沫(しぶき)。
左右に揺れる胴。
痙攣する足。
躓(つまず)き跪(ひざまず)く。
土に返る塊。
超満員の観衆からおこる強烈な歓声。
時を打つ楽隊のファンファーレ。
真っ白なハンカチの波。
白一色に埋まった観覧席。
勝ち誇った態度の闘牛士。
これらはすべて一体であり、連続した行為であり、強烈であると同時に、優雅で、しかも、華麗なる祭典。
そこには、すべてが超越された時間と、「死」に直面したものだけが知り得る「生」の厳粛さと、淡い黄昏の叙情と、生きている事の歓喜がある。
それは、寸分の透き間もない「美」であり、「芸術」なのだ。
スペイン人は、真の芸術を理解する数少ない国民なのだ。
日本人が、あの秘めた暗示の芸術を理解する国民であると同じように、スペイン人は、行為そのものの芸術を理解する国民である。
それらは、また、熱狂的な「フラメンコ」にも共通する。
細長い小さな暗い入口を入っていくと、煙草の煙と、ギターと、カスタネットと、床を叩く足音に、まず圧倒される。
私たちは、200ペセタ(約千円=20ユーロ)のお金を支払うという義務を果たしたならば、渇ききった口と、熱しきった胃を潤す、1本のビールと、熱狂的に響きわたるリズムの世界に入っていく権利を有する。
ギターの弦が、滑らかに、艶やかに、実に休むことなく鳴り渡る。あの掠れた、しかし、張りのある、それでいて哀愁を含んだ男の歌声とともに。それと同時に、踊り子の強弱を付けたリズミカルな足音が、細やかに、弱く、優しく、強く、そして激しく床に打ち付けられる。
心臓の鼓動に合わせて響く、手に持たれたカスタネット。その手首は、一種の奇妙さをもって動く。
彼女らは、ほんのいっ時の休みを除いて、夜十時から夜中の三時までの五時間を、踊り続ける。
観客は、その躍動につり込まれ、それらのリズムと一体になる。
そこには、
熱気と、
飛び散る汗と、
歌声と、
ギターの響きと、
興奮と、
真っ暗な部屋と、
色とりどりのライトと、
その照明に照らし出された舞台と、
激しく揺れ動かされる踊り子の衣装と、
彼女らが、その舞台に出るまでの血の出るような練習に費やされた時間と、
何ものにも替えることの出来ない努力と、
喜びと、
苦しみと、
笑いと、
涙とが、
まさに一体になって存在するのだ。
それらは、生きている事を象徴するかのように、私たちに襲いかかってくる。
その場にいる限り、私たちは、生きている事を忘れないだろう。その場にいる時間は、一つの「生」であり、一つの「人生」であり、私たちが生きていくうえに「経験」するすべてなのだ。
そして、そこに「美」と「芸術」の根源がある。
私は、哀愁を帯びた歌声を聴きながら、そのことを感じた。
私は、スペインを立ち去る時も、まだその興奮は、お醒めやらなかった。
ところで、私は、マドリッドにおいて、一つの、ちぐはぐな矛盾したものを感じた。
それは、マドリッドの街が、あまりにも整然とした佇(たたず)まいをしており、至る所に噴水と公園があり、それが、あまりにも美しく、そして、街を歩く人間の落ち着きと、伸びやかさである。
これが、闘牛とフラメンコの熱狂さや、街を一歩外に出た時の、あの広大な岩と、砂と、小山と、永遠に続く赤土などと、どう結び付くのか、ということだ。
歴史を思い返せば、スペインは、過去の過去、あの植民地時代の政策によって、南米のほとんどを征服した。
コルテス(1485~1547)は、アステカ文明を破壊し、メキシコを征服した。
ピサロ(1475~1541)は、インカ帝国を滅ぼし、ペルーを征服した。
その彼らは、「エル・ドラド(黄金に富む理想郷)」を求めて、南米に旅立ったが、彼らの故郷(メデリンやトルヒーリョ)は、昔から、私が目の前で見ているこの不毛の大地に、輪を掛けたほどの不毛大地だ。
だから、故郷に錦を飾るために、金銀財宝の山を持ち帰るために、殺戮(さつりく)に殺戮をかさねて故郷に送った。
しかし、その残存は、今は、何処にもない。彼らの故郷でも、彼らの石の碑がそれぞれ一つずつあるだけだ。
もし、残存があるとすれば、このマドリッドの街並みだろう。ここまで整然と街並を整えるためには、膨大な資金が必要だったろう。
私は理解に苦しみ、帰りのパリまでの列車の中で考え続けた。そして、ある結論に達して、日記に書き付けた。
日記には、いささか興奮気味に、次のようなことが書かれてある。
「これでスペインを、私は離れる。スペインの印象は、纏(まと)まりがつかない。
闘牛やフラメンコの熱狂さと、街や公園の美しさと、人間の落ち着きと、街の一歩外は、不毛の大地。
私には、それらが一つの印象として、纏めることができない。
いや、それらは、少しも、ちぐはぐではなく、矛盾しない、纏まりのあるものなのかもしれない。
彼らは、あの開拓が出来そうもない広大な土地を持っているからこそ、他国に出かけ、送金し、彼らが住み得る場という「街」を設計した。そして、大事にし、美しく、しかも秩序あるものにした。
不毛の大地と強烈に照りつける太陽は、彼らの心の底に沈み、取り外すことができない。
それが、過去の過去では、南米に旅だち、猛威を振るった。
それが終わった今は、「闘牛とフラメンコ」という熱狂的な、情熱をもった、最大のエネルギーの、最大のはけ口として、求め続け、継続し、永遠にその行為をやり続けるために、過去の栄光のただ一つ残された、マドリッドという街において、実に優雅に、しかも、伸びやかさを伴った華麗さで、この世の最高の「美」と「芸術」を、表現する。
これが、スペインの、しかも、マドリッドの人々なのだ。
あなた方は、幸福な人達なのだ。
私は、日本に帰れば、毎日の生活と時間に追われる。
スペインの人よ、あなた方は、世界の国々に対して、誇らしげに示すがよい。
アデオス、スパニッシュ(さようなら、スペイン人)!!
おわり
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(前回までのカウントが、予定回数を越しましたので、
2014・6・17より、新しいカウントになりました。)