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丸山洋續

小説『寂静(じゃくじょう)』

 

     

  (前篇)・「寂静無為の楽(じゃくじょうむい)の(みやこ)」・マルタン



         


1

 

 平成十七年四月十五日、桜が満開の時に、彼(栄一)は他界した。

 三月から肺炎になり、ほとんど毎日眠る状態でいたが、そのまま永眠した。

 大正四年福井県敦賀(つるが)で、生をうけてから九十年。

 法名は「寂静(じゃくじょう)」と授けられた。

   お経の『正信偈(しょうしんげ)』の後半に、

 「速入寂静為楽《そくにゅうじゃくじょうむいらく》

必以信心為能入《ひっちしんじんいのうにゅう》」

(速やかに寂静無為の楽(みやこ)にいることは、

必ず信心を以て能入と為すといえり。)

から頂いた法名である。



 大正・昭和・平成の三代を、ほぼ日本の時代の流れと共に生きていたように思う。



 

 

2  

 

 舞台は、敦賀の農家から始まる。

 大正四年、湧き水がコンコンと吹き出す台所の釜で、湯を沸かしていた五十六歳になる「とき」は、初孫の出産を、自分の出産と同じような気持ちで待ちかまえていた。

 手伝いの「ぎん」が、奥から小走りに走ってきて合図を送った。

 急いで樽に湯を入れ、湧き水でぬるめて奥の部屋に持ち運ぶ。

 白の布で清められた部屋には、年配の産婆が、二十一歳になる「ゆか」の出産に立ち会っていたが、初産は、困難を極めていた。

 「ひー!ひー!ふーー!!……。そうそうそうじや!……。」

 産婆が大声で「ゆか」を指導していたが、隣の部屋の父親になろうとする二十九歳になる栄太郎と、その父で六十歳になる栄蔵が、「ゆか」より以上に呼吸を真似た。

 この状態が、もう二時間は経とうとしていた。

 男二人が、真っ赤な顔を襖に向けてリキんだ。

 産婆が、繰り替えす声が聞こえてきた時、「ゆか」の叫び声が起こり、一瞬の沈黙が有った。

 男二人が顔を見合わせた時、産婆の、

 「ときさん、湯!」

 という叫び声が聞こえた。

 「ハイ!」

 ときの声。沈黙が続いた。が、産婆が、

 「男の子じゃろ!」

 と叫んで、二三度肌を叩く音がし、湯の音が聞こえた。

 赤子の大きな泣き声が、家中に響き渡った。みんな緊張の限界にきていた。

 二人の男は、矢も立ってもいられずに、襖を開けて中に飛び込んだ。

 産婆が、タオルに赤子を巻いて、ゆかの横に寝かせ、そのまま倒れてしまった。

 男二人は、赤子の側に行き、覗き込んで母子の無事を喜んだ。

 全員がクタクタになっていた。

 手伝いの「ぎん」が、台所の湧き水に走って行って、手ぬぐいを濡らし、気絶している産婆の頭にのせた。


 この大正四(1914)年は、日本が第一次世界大戦に参入して一年、前の二つの戦争(日清・日露)の、「勝った!勝った!」の戦勝国の雰囲気が続いていて、日本国中が高揚していた。

 が、一般市民は、低賃金・長時間労働・厚生設備不備等で苦しんでいる。

 しかし、表向きは、世界の政治・経済の自由・民主主義に促された、大正デモクラシーの華やかなりし時でもある。

   敦賀の田舎でも、その雰囲気が伝わり、長男誕生は、村の長老から小作人まで、その夜には祝いにやってきた。

 「日清・日露と日本は、勝利しよって、今度ば、また~大勝利、間違いなかじゃ~。いよいよ世界大国の仲間入りゃじゃろの~。」

 長老は、座敷の真ん中に鎮座して、左手にぐい飲みの酒を捧げて、有頂天になっていた。

 「そらそうじや、日本は、戦争ごとに国土を広げ、朝鮮半島ば、手に入れよっちゅう……。」

 「朝鮮半島だけじゃなか、中国大陸も~、もう掌中にもらったと同じじゃ~」

 長老の相方になったのは、福井から娘の出産でやって来た、ゆかの父親長光である。福井でもそこそこの家柄で、塾で教える学識のある、長光だ。

 「ところでや~、長者、この間、大阪に行った者から、聞いちゃが、あんまり大きな声じゃ言えんが、堂島の米倉には、米がわんさかと積んだあるでや~らし。」

 「そうか……。やっぱり、この間も、米監督さあが、また、この辺りの米の出来だんね~、調べおった。」

 「わしら~には、米が少しでも上がってくれれば嬉しいが、町じゃ、去年より、一石17円と1円上がとるらしい。わしらの手には、金が入らんと、町だけが値上がりしとるやざ。」

 「このままじゃ~、来年は、2円、再来年は、4円……。」

   「困ったもんじゃ……。買い占めとるんやだんね……。」

 「村としては、それを見込んで、少しずつ備蓄さ~せんとならじゃの~。」

 「おえ~米監督に、ばれやらざぁ…。」

 「分かっとるだんねが、明治のあの米騒動は、大変やった~。あの二の前にならんためにや~、自警団を組織して、ならず者を撃退せにゃならんのう……。わしらの死活問題じゃ。」

「綿織物は、世界一じゃ言うとる。若い娘サー、奴隷みたいに働かせおって、経営者だけが儲けとるやざ。」

 「金属工業じゃて、機械じゃて、何でも世界一ねろとる。安う売って、儲けて、兵器を海外から、わんさか買うとろんやざぁ。」

 「長者さま。じゃが、どうしてまた、米をば買い占めとるんじやさぁ?」

 小作人の「信(のぶ)」が、口を挟んだ。

 「うん~~、それは……。」

 「それは、シベリア出兵じゃなかか!」

 「かも知れんの~。今度の戦争で、ドイツから中国領地の権益を受け継ぎ、次は……。」

「ロシアのシベリア……。」

 「そう、明治の初めに、樺太と千島の交換したじゃが、この間の日露戦争じゃ、朝鮮と中国の一部は、日本のものになったが~、ロシアの領地は、手つかずだんね~。」

 「なるほど~、シベリア出兵となりゃ~、軍人を養う米がいる。」

 「また、戦争か……。この間の戦争で、十二万ほどの人間が死んどる。」

「またまた、徴兵が厳しゅうなるやざぁ~。」

 「困ったもんじゃ、若い労働力が、また無くなっていく……。赤ん坊が生まれて嬉しいが、その父親が戦争へば引っ張られて、苦労するのは女と年寄りじゃ~。のう、栄蔵さんよ!……。」

 そう言って長者が栄蔵を見た。

 「あれー、栄蔵さんば~、酔いつぶれとる。誰じゃ、呑ましたらあけんがな!一滴も呑めん男じやからと言っといただんね~。」

 「このへんで、そろそろ、お開きと……。」

 「うん、そうじゃの、……。ときさん……!ときさん……!」


 ときは、手伝いのぎんと台所で、握り飯をつくっていた。孫が誕生したことで、いよいよ、自分がこの家の中心になって、切り盛りすることになったことを、心に思い締めていた。

 そんなときに、奥の座敷から、声が掛かったのだ。

 座敷に行くと、主人の栄蔵も、息子の栄太郎も、ひっくり返っていた。

 栄蔵は、遅かった孫の誕生を一番喜んでいたため、酒を注ぎ回りながら、飲めない酒をむりして、口に入れて、ひっくり返っていたし、栄太郎もまた、全く飲めない男だった。

 客の中には、それをよく知っていて、ぐい飲みに注ぐ真似だけして、言葉だけを添えていた。

 が、口に付けているうちに、匂いで酔ったらしい。

 客たちが、わいわい言いながら帰って行った後は、家中が静かになった。外から、虫の声が聞こえてくる。

 ふと、「とき」は、片付けながら、自分の人生を振り返った。

 この家に嫁いで九年めの二十七歳に、ようやく栄太郎を生んだ。いつ実家に帰されるか不安の毎日だったため、村の鎮守様にお参りしていた。

 夫の栄蔵が、ときの身体を思う優しい言葉を、ただただお守り代わりにして生活していた。

 養子を貰う話も何度かあったが、無事栄太郎を出産し、今日まで暮らしてきた。

 この家は、元武家であったが、男子の出産がなく、江戸の後半「御家取り潰し」になってしまった。

 幸い、領地の一部を配分され、小作人を雇い、米を作って今日までやってきた。

 もし、栄太郎の嫁の「ゆか」に子が生まれなければ、またまた養子がどうの、の話しに心を煩わさねばならなかった。

 それが今日、無事に男子の孫が生まれ、喜びもひとしおだった。

 「ゆか」はゆかで、初乳以後、順調に赤子が乳を飲む我が子を愛おしくてたまらなかった。

 そして、自分がこの家の一員であることも嬉しかった。彼女もやはり、いろんなところで、赤子を産めない女性が、実家に帰らされているのを見ていたからだ。

 福井の女学校を出て、すぐにこの家に嫁いで来たが、長光家は学者肌で、百姓の仕事は一切したことがなかった。が、一応は、家事のみをやってほしいとの話しだったし、栄太郎の優しさが彼女の心を捉えた。

 この家の男衆は、優しい人ばかりで、昔の「御家取り潰し」が、逆に男衆の女性への思いやりや慈しみが、代々の家柄のように続いていた。



 次の年、赤子はすくすくと成長し、「這えば立て、立てば歩めの親心」ではないが、家族の愛情を一心に集めていた。が、次男の「直之(なおゆき)」が誕生した。

 その夜、去年と同じ長老や小作人、それに、ゆかの父親らが祝宴を催した。

 「やっぱり、日本は強いの~。イギリス・フランス・それにロシアと手を結んどるから、間違いのう勝利するだ。ドイツ・イタリア・オーストリアなんぞ、屁のカッパじゃ~。」

 「こうなると、ドイツの中国領地ば、日本のものになると。すれば~、いよいよ満州あたりの権益さ~、手に入り、世界中でどことも引けを取らん国家の誕生じやさぁ。」

 「嬉しいことだば~、そやども……。」

 「うんだ~、そやども、こうなってくれば~、徴兵がますます強まり、農家は、弱体するだんね……。」

 「そうじゃ、去年もこの話しをばしとったが、米さ~、またまた値を上げ取るがってん……。」

 「米どころじゃなか。醤油も、味噌も、衣類も、み~んな値上げじゃ~。去年からみれば、倍近くまでになっとるだんね。」

 「参戦国に、作れば作るだけ売れる。金が入ってきて、また作る、また売れていく……。戦争景気とは、すげえもんじゃ。福井もみんなニコニコしとる。」

 何でも作っとれば、売れて、また、値が上がって、売れて……。しかし、こまったものじゃ。都会じゃ、金っぷりは、良いが、田舎は、生活が苦しゅうなるばっかりじやさぁ。」

 「その後、大阪の堂島の話しは出んかの~。」

 「塾生が、手紙をば~寄越しよったが、商品が、一日ごとに値を上げていくのが眼に見えてわかるそうじゃ。金が入ったら、すべて食料品と、商品に替えている、ということだんねー。」

 「このまま、永遠に行くはずはなか~。どっかで頭打つ。その時は、考えても恐ろしい。この反動ば、押さえ切れね~ね。」

 「その時ば~、いつごろだんね?」

「この戦争が、終わる頃じゃろ。みんな、分かっとる。分かっとるじゃが、どうにもならんで、流れに乗ってしまう。」

「お上は、それでええと思っとるのかの?」

「政府が進んでやっているのだんね。」

「武器や軍艦をば、大量に手に入れたいためには、稼がねえとならんからの~。」

「瀬戸の呉あたりは、去年より造船所が10以上増えて、今まだ建設中が10以上あるだんね。」

「海軍を増強し、日本海に面した一帯の大陸おば、領有するつもりじやさぁー。」

「そうなったら、日本で米作っとるより、外に出た方がよかと。」

「出稼ぎば、国も奨励しとる。」

「いよいよアジアの日本、世界の日本じやさぁ。」

今日はめずらしく、栄蔵も弁舌である。

   「栄蔵さん、話しは変わるが、良かったの~、男ん子が二人じやさぁ。」

「そうでおま~。これが二百年前なら、御家お取り潰しには、ならなんだ。」

「うんだ、うんだ。あの城跡を見ると、もったいない話だんね。」

「家老家の長老さ~、辛いの~」

その言葉に、長老は、何度も頷いて意志をみせた。そして、ぐい飲みを一口飲んで、そして、赤子の父親の方を見て、驚いて叫んだ。

「栄さん!あんた、どなしおって?」

全員が栄太郎を見てどよめいた。栄太郎が、うつむきながら、身体を痙攣(けいれん)させていたのだ。

横に座っていた、ゆかの父親の長光が、栄太郎を起こそうとしたが、ますます、痙攣が激しくなって、横に倒れた。

「栄さん!あんた、酒飲んだんね!!」

回りのものが、起こし上げて、栄太郎の名を呼び続けたが、痙攣は治まらなかった。

「医者じゃ!誰か、医者を呼んでこー!!」

座は騒然となり、騒ぎ出した。

近所の医者がすぐに駆けつけて、胃の中を洗浄したが、痙攣はおさまらなかった。

今で言う「急性アルコール中毒」である。

二日間病状は、続き、そして栄太郎は、息を引き取った。享年30歳という若さだった。

ゆかは、22歳の若さで、未亡人になった。

葬儀が終わってから、ゆかは、身体不調で寝込んでいた。乳だけは、なんとかしぼりだしたが、身体全体がしびれたような状態で、動きがとれなかった。

そのため、必然的に家は「とき」が中心に動き出し、血の繋がらない女同士の嫁姑は、やはりどこかで折り合いがつかなくなっていった。



 

3  

 

ゆかは、ロシアのウラジオストックに渡ることにした。

「ゆか」の父親長光が、ウラジオストックの日本人学校に招かれたことで、長光家全員が、渡ることになり、ゆかの心は動いた。

ときが、家の跡継ぎの二人の孫を溺愛し、孫に好かれるためには、ゆかを悪者に仕立てたからだ。

ゆかは、二人の赤子を連れて、敦賀・福井を捨て、父親のいるウラジオストックに渡った。敦賀港からウラジオストックまで航路が開設されていたので、乗船するだけで行けた。

大正八年のウラジオストックは、イギリス・アメリカ・日本が進駐する極東共和国が支配していた。白系ロシア人が中心で、イギリス人・アメリカ人はもとより、中国人・朝鮮人がひしめきあっていて、四十万以上の人口を抱えていた。みんな、新天地を求めてやって来た。日本人だけでも1万人近くいた。その当時、ウラジオストックは、国際都市だったのだ。

父親の収入で家族は生活ができ、子育ても、自分の思うやり方でやる喜びを感じた。

しかし、大正10年(1922年)10月25日に一転した。赤軍が怒濤のごとくに進入し、支配した。ウラジオストックから30万人が、蜘蛛の子を散らすように他国に逃げていった。

「ゆか」は、無差別殺人が行われている現状を見て、子供たちの身に危険を感じ、弟の「直吉」に敦賀の家の丸山家に子供達を連れて行ってくれることを頼んだ。

「ゆか」と父親「長光」は、中国の「大連」に逃げて行った。

大連には、日本人街が、ウラジオストックの20倍の20万人の国際都市に大きく膨れ上がっていた。二人とも、福井に戻る気持ちは無かった。

「ゆか」親子は、大連の知人から日本人学校の教師の職を紹介された。「先生」の数が少なく、求められていたのだ。

住居は、常盤橋通りから一つ奥に入った中国風建物の一軒家だった。この常盤橋通りは、8階建ての「テンマヤホテル」を中心に発展した繁華街で、ちんちん電車が東西に走っていた。

日本人学校は、1キロ少し離れた浪速町のビルの五階にあった。この辺りは、西欧風の建物が並び大連の銀座とも呼ばれ、中央車道は、コールタールで舗装され、しかも歩道は石畳が敷き詰められていた。「ゆか」にとっては、夢のような生活だった。

日本から中国に一攫千金を願って、続々と人がやって来た。学校も毎年生徒数が増え、盛況だった。

そして、大正十五年(1927年)大正天皇が崩御され、「昭和」になった。

その年、ゆかに再婚の話が持ち上がった。三人の子持ちの、同僚の教師だった。辞めずにそのまま勤められることを聞いて、結婚した。



そんな時、栄一は、母恋しさで、中学校を中退し、家を飛び出し、大連にやって来た。

ゆかは、それには驚いた。が、無謀な行動をするのは、自分と同じ血が通っているからだと感じた。

「百姓も勉強もいやじゃ。他のことなら、なんでもやる。」

それが栄一の口癖になっていた。

「敦賀」に手紙を送ったが、栄蔵からの返事には、

「祖母のときと、毎日喧嘩して、家を飛び出した。こっちに戻ってきてもすぐ飛び出すだろう。そちらで仕事を見付けてやって欲しい。」

とあり、仕事探しになった。

この時から栄一の顔が明るくなった。よっぽど、敦賀や福井での百姓生活はいやだったのだろう。

大連連鎖商店街の裏手には、大きな各種の卸問屋があった。服・薬・履き物・食糧品・穀物・魚等々、日本から送られてくる商品がそこに集められ、そして、大連の生活を支えていた。

「ゆか」は、栄一を連れて、その商店街を歩いた。そして、どこが気にいったか?を尋ねた。

百姓がいやで家を飛び出した栄一にとって、まだ親しみが持てたのは、魚屋だった。

そこで、日本人学校の校長を通して、「魚八」に持ちかけてもらい、次の日から、魚屋の「魚八」に住み込みこんだ。

昭和四年(1929年)。

アメリカウォール街の株式大暴落によって、世界中の資本主義国をまきこみ、この年以降四年間にわたる恐慌は、全世界で五千万人の失業者をつくったといわれている。

日本から、ますます、人間が流れ込んで来た。

昭和五年九月。

柳条湖の満鉄線路爆破により、運命の十五年戦争の「満州事変」がおこった。そして、満州に開拓団が進んでいった。

人手が足りないために、日本人は、大陸に渡っていった。

大連は、その窓口だったため、人でごったかえすほどの人間が集まって来た。そして、日本からわんさとやって来て人間が、日本食を求めた。魚を求めた。



昭和七年、「満州国」建国宣言。

 

4  

 

魚八の親方は、料理店を開店した。新鮮な魚を調理し客に食わせた。他より安くしたことが功を奏して、毎日忙しかった。

そんな時に栄一が、見習いで入ってきた。子供がいない親方夫婦は、栄一を自分の子のように、仕入れから調理から、販売まで仕込んだ。

栄一は、手先が器用だったので、畑仕事より上手にこなした。



この年(昭和七年)は、前年の「満州事件」を受けて、「上海事件」が起こり、国内では、「五・一五事件(1932年昭和七年)」が起こり、いよいよ物騒な時代に傾き出していた。そして三年後、「二・二六事件(1936年昭和十一年)」ファシズム(民族主義)運動が、支流を占めだした。

大連に来て五年、 昭和十二年(1938年)、国家総動員法公布され、栄一が数え年二十二歳の時に「赤紙(徴兵)」が来て、日本軍に入隊した。

ハルピンの陸軍省の新兵訓練に半年訓練を受け、そのまま炊事班に配属され、北支戦線に参加した。激しい戦いだった。

その時、銃弾が一発、栄一の鉄兜に当たり、意識を失ってしまった。死者や重軽傷が多数でた戦いだった。

軍人同士の結束が、固さを増した。栄一は、二日後に意識を取り戻しが、これが一回目の命拾いだった。

すぐに、部隊に戻った。

同じ部隊に、東京の料理屋の山口伴作(24)、大阪の黒門市場の沖田正二(24)、淡路島の料理旅館の末次魂二(22)、博多の食堂の堀田太郎(19)がおり、それぞれが痛手を負った。が、年齢が異なっても生き死にの同じ経験をした彼らは、また彼らを戦友としての深い仲間意識として繋がった。

昭和十三年(1938年)5月13日山西省太原入城。日本軍は、西に西にと進んだ。

昭和十四年(1939年)12月2日 新兵が入隊してきて、上等兵になった。戦況は「日本万歳!」が続き、ますます、日本人が大陸にやってきた。


三年勤め上げて退役し、大連に帰ってきたら、魚八の親方が、東京に料理屋を出すから、行ってくれないか、と言いだした。東京の築地近くの料理屋だった。築地は、日本でも有数の卸市場で、栄一に勉強させる意味があった。栄一も、久しぶりの日本なので喜んで出かけた。

東京出身の山口伴作と再会した。伴作には、嫁と子供がおり、渋谷近辺の地主の長男で、栄一を東京案内して回った。

そして、栄一の住み家まで世話をやいてくれた。

ところが、一年経った二四歳の時、三軒隣の天ぷら屋から出火し、見る見るうちに火の粉が襲いかかり、大火災になった。

命からがら助かって、伴作の家に転がり込んだ。これが、二度目の命拾いだった。

魚八の親方が大連から東京にやって来て、後始末をし、また大連に戻った。



昭和十五年(1940年)、日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ。すると、本土からまた、日本人が大連に船でやって来て、ますます魚八は大繁盛した。



昭和十六年(1941年)、四月、日ソ中立条約調印。

栄一が二五歳の時、魚八の親方から、大連の連鎖商店街の裏手で魚八の出店を任された。独立採算である。

しかし、知名度なく、場所も悪かったので客は少なかった。そこで、昼の間だけ、料理組合に何か仕事がないか探してもらった。

すると、近くの「日本水産」大連支局から話があり、若い女性社員の結婚のための習い事として、「料理教室」を開きたいということだった。

すぐに栄一は引き受け、週に一日実演実習の形で教えだした。日本からやってきた若い女性から人気があり、週に二日教えだした。

栄一は、昼は、近くの「日本水産」の女性社員に料理を教え、夜は、店を切り盛りした。ネタが新鮮で味がよいことから徐々に評判になりだした。

そんな時、店に何度か食べに来てくれた「日本水産」の女子社員の「稲」と恋愛しだした。

アカシアの花が美しい大連の通りは、二人にとって最高のデートコースとなった。 そして、結婚した。仲人は、魚八の親方夫婦がやってくれた。

昭和十八年のことである。



5  

 

この年の十二月「真珠湾攻撃」太平洋戦争勃発した。

街全体が緊張感に包まれ出した。新聞は、連日書き立て、軍隊は、南方と中国大陸に分かれて人間移動が激しくなり始めた。

昭和十九年栄一二八歳、稲二一歳の時、長男が生まれた。

魚八の親方夫婦は、子供の可愛さを改めて感じ養女をもらった。

昭和二十年三月に二度目の赤紙が来て、召集され、ハルピンに向かった。

今度は大佐の食事班に配属され、上等兵だった。初めは食糧の配給はよかったが、日に日に少なくなり、初夏には、途絶えだし、兵士には、前年より半分しか配給されなかった。

栄一は、将校に何度も掛け合ったが、将校にも、なすすべがなかった。

八月初旬、突然のソ連軍の国境越えにより、前線からの兵士や開拓村の避難民によって、兵舎はごったかえした。



八月十四日早朝。



栄一は大佐に呼ばれた。大佐は、

「ハルピン市内の軍兵舎に行って、食糧と医薬品を持って帰るように。軍医の報告通りなら、薬は底をついた状態だ。もし、ハルピンにないのなら、『大連』の病院に列車で行って、持って帰るように。」

と命じ、軍医を紹介した。

部屋を出た時、大佐は、二人を呼び止め、言った。

「明日、将校達に集合命令が来ている。数日前の本土の、米国軍による大型爆弾のこともある……。もし、もし……。」

将校は、言葉を切って、小さくささやいた。

「……日本が、敗れたなら……、君たちは帰ってこなくてもよい。君たちは、この兵舎でよく頑張ってくれた。君たちの誠実さは、全員が認めている。私から礼を言おう。ありがとう。」

将校は、頭を下げて、続けて言った。

「君の家族も軍医の家族も大連にいる。もし、日本の敗戦を聞いたなら、家族のもとに行きなさい。ここは、君たちのいる場所ではなくなる。」

二人は、大佐の愛馬と軍馬を譲り受け、ハルピン市内の軍兵舎で僅かな食糧を分けて貰い、軍病院に行った。が、やはり薬品などあるはずがなく、軍病院から逆に、薬を手に入れたら、一部を譲ってほしい、とまで言われた。大連には、病院長から「列車優先座席」を預かり、軍馬をあずけて、ハルピン駅に向かった。

途中、古着屋で普段着を買って、軍服と着替えた。

  優先座席は、日本人の軍人やその家族でいっぱいになっていたが、顔色は青ざめ、ひそひそ話しは、敗戦の可能性についてであった。

列車は十一時に出発し、二十二時に「大連」に着くはずだったが、三十分走って止まり、また三十分走って止まり、次の三十分ほど走った所で、完全に止まってしまった。

車掌は、信号機の故障だ、と言い回ったが、乗客は不安を募らせた。

栄一は、何ヶ月ぶりかで会う家族のことを想い、高ぶる心を押さえた。

結局、三夜列車は動かずじまいで過ごし、明くる四日目の朝、信号機が赤のまま出発した。

途中三カ所の駅で止まり、夕方、あと僅かで「大連」という所で、列車内は、あらぬ噂が流れた。

「玉音放送で、日本が負けた。」

というのだ。

栄一は、まさかという気持ちと、納得の気持ちが交差し、複雑な心境になった。そして、将校が言った言葉、

「もし、日本が敗れたなら、帰ってこなくてよい。」

を思い出した。

列車が、大連駅に着いた時、駅は大混乱に陥っていた。

中国人が、奇声を発し、

「中国が、日本に勝った。」 ことを、言い触らしていた。そして、列車から降りてくる日本人を異様な目で睨み付けた。今までの屈辱が爆発しようとしていた。

長い年月の圧迫は、民族が民族の憎しみを増幅させていた。

列車から降りる日本人は、散り散りに逃げ惑ったが、猛り狂う民族は、一撃に呑み込んでしまった。

二人は、古着を被って、列車と線路の間を反対側にぬけた。その時、顔を線路の油で黒く塗り、リュックも裏替えしてぼろぼろの布切れのようにして歩き出した。

駅は、騒然とし、中国語の怒鳴り声が響き渡っていた。

「プッシン!プッシン!チンチャー・ライライ(やめろ!やめろ!警察が来る)!」

黒い塊は、一斉にそこから走り去った。

二人は、走りながら裏に抜ける通路に入って、裏通りを走り出した。

大連は、大変な事になっており、大連病院には、到底行けそうになかった。

二人は、駅に近い栄一の家にたどり着き、妻と赤ん坊が無事であることが分かった。軍医は栄一に言った。

「日本で会おう。どんなことがあっても、日本に帰ろう。そして、日本で再会しよう。」

敬礼して、彼は走り去った。

久しぶりの家族の再会の喜びもつかの間、栄一は、番頭の中国人の「張」に、これ以後は、この家屋も商売も任せ、自分たち家族は、奥座敷に住むことを述べた。

張は、喜び、栄一家族の身の安全を必ず守ることを約束してくれた。

張が言うには、

「昼過ぎの「玉音放送」の後、中国人は、丘の上の日本人街に押し寄せ、略奪と放火がおこり、今も燃えている所であること、その直後にソ連の巨大な戦車が、大連大広場から四方に放射された道路を走り、満州鉄道本社や豪壮なヤマトホテル・軍病院には、ソ連の国旗を立てて走り回っている。」

ということだった。

栄一は、「魚八」のことが心配になり、日本人街に行きかけたが、炎がひろがる一方であり、焼け野原になりかけていた。

張が言った。

「ソ連兵、トラックと戦車、何万人、雪崩れ込んで来た。略奪・強姦・無作為殺人、やってる。そして、中国人でさえ、入れ墨をした囚人志願兵のならず者によって、危険状態にある。」

ことも告げた。

街全体が、ソ連兵の無法地帯となり、どの家屋もすべての出入り口を頑丈に閉じていた。 

しかし、月に一度は、略奪され、家の中のものは持って行かれた。そのたびに、栄一の家族は、屋根裏に隠れた。女は、髪を丸刈りにしていた。

食べ物は、米屋を始めた張が分配してくれ、生き延びていた。

その状態が三ヵ月は続いて、中華民国が、街を統治し初め、日本人の第一次帰国引き揚げの話が舞い込んできた。

が、「稲」の腹には赤子が宿っており、引き揚げ船ですぐに帰国するのは無理だ、と判断された。

しかし、次の帰国は、いつかは、誰にも分からなかった。

昭和21年1月、次男が大連市加茂川町の病院で、誕生した。体重二千そこそこの小さい子だった。その上、稲は、栄養失調ぎみで、乳は出なかった。そこで、張の妻は、米を研いだシルを残しておいてくれ、それを乳代わりに飲ました。それでも、何とか子供は育っていた。

絶望に近い毎日であったが、その中でも、以前の町内会的な組織が出来上がり、回覧なども回ってきた。が、引き揚げ船の第二次は、上海発と書かれていた。

一年過ぎたが、帰国の話はなかった。

栄一は、張の米屋の仕事を手伝って、なんとか生計を立てた。



6  

 

昭和23年1月、吉報が入ってきた。第三次引き揚げの日程の知らせだ。

喜びが顔に表れ、みんなが笑顔になった。

町内会の回覧には、当日の持ち物は、

「両手にもてる日用品の衣類のみで、貨幣・宝石貴重品類すべて禁止」

となってあった。

「もし、違法を犯した者は、その場で『銃殺刑』に処す。」

と書かれてあった。

稲も栄一も、自分たちの紙幣や宝石は、すべて、自分たち家族の面倒をみてくれた張に渡すことにした。

当日、夫婦は、二人の着替えとおしめを入れた袋だけの荷物で、港に行った。

張が最後まで、見送りについて来てくれた。

港に着くと、中華民国の兵士が多数警護にあたり、物々しい状態だった。

港事務所で順番に、名前と身元を確認して岸壁に行くと、紙幣や軍票や宝石類が山のように積み上げてあった。

桟橋の手前で、身体検査を兵士が厳しく検査し、宝石を持っているものなら、即刻銃殺されているのを見て、ほとんどの引き揚げ者は、その場所で、彼らの財産すべてを手放した。それらは、長い年月をかけて自分の財産にしてきたものだが、すべては、無の状態となっていた。命と宝石を天秤にかけて、それしかない。

大陸に渡ったすべての人間は、帰国する時、大陸のものは一切放棄し、ゼロからのスタートとなった。

船の中は、身動きできない位に押し合っていた。家族は、押しつぶされないように隅の方に席をとった。



昭和二十三年六月、下関港に帰国第一歩を降ろした。

港の事務所で、手続きをして、僅かな日本紙幣を受け取って外に出た。

が、その時突然一人の男が栄一に突進してきた。栄一が身構えて子供たちを後ろにやろうたした時、「丸山上等兵!」と叫ぶ声がした。よく見ると、戦友で博多の堀田太郎だった。

堀田は、栄一にしがみ付いて大声で泣いた。

独り身だった彼は、第一陣の引き揚げ船で日本に帰って来て、博多駅前の食堂兼土産物屋との店を父親と共に始めていた。しかも嫁をもらって一児の父親になっていた。

第三次引き揚げ船のことを、新聞で読み、もしかして……、と思って港に待ち構えていたという。

まずは博多の堀田の家に行き、二晩泊まって、北陸線の列車に乗り込んだ。

子供二人をそれぞれ胸に抱きかかえながら、栄一夫婦は、これからの生活を考えていた。



7  

 

22年ぶりに「敦賀」に戻ってきた。敦賀は、昔のままだった。

祖母のときは、87歳で、まだ、腰も曲がらず、元気に生活していた。

突然の帰郷で、ときは、大喜びしてくれた。

そして、稲を見て、「可愛い嫁じゃ。」とはしゃぎだした。

敦賀の家は、栄一の弟「直也」を中心に回っていた。

直也は、二度目の出兵する直前に敗戦が決まり、敦賀にそのまま戻ってきたのだった。

が、昭和20年に、「農地改革」によって、土地は、十分の一以下になっていた。



 そんな時、「魚八」の主人から「大阪」で勤め始めた、と手紙が来て、栄一も大阪に働きに行く決心をした。

その年、栄一は大阪に出て行った。料理組合「関西割烹」ができあがったことも聞いたからだし、大阪には、黒門市場に戦友の沖田正二がいるはずだった。

大阪は、20年の3月空襲によって、街のほとんどを焼かれ、23年には、まだ闇市が散乱して、都市計画は進んでいなかった。大阪駅から難波までの御堂筋は、ほとんどが見渡せ、間にそごうデパートが突っ立ていた。前には、「M・P」が自動小銃を持ち、警備していた。

大阪駅から歩いて、淀屋橋・本町・心斎橋・道頓堀そして、千日前を通って黒門市場に来て、沖田のまぐろ屋にたどりついたが、家族の者から「まだ引き揚げていない」ことを聞いて、ひょっとして「シベリヤ送りに」と思ったが口に出さなかった。

そのまま「関西割烹」の事務所に赴き登録をして、「魚八」の主人の紹介の、道頓堀の「八木」割烹に勤めた。

道頓堀は、空襲から免れて、中座・角座・浪花座などは、そのまま残っていた。



8  

 

次の年には、家族を大阪の「岸里」の小さな文化住宅に呼んだ。ここは、通勤に便利なだけでなく、近くには、商店街があり、稲の買い物が 便利だろうと考えたからだ。

その文化住宅の裏がパーマ屋の奥の間になり、経営者の隠居さんが生活していた。

この隠居は、インテリで新しい時代は、「民主主義」と言い、「資本社会」で、誰もが平等で、誰もが自由であることを唱えた。

また、敗戦した日本の国で必要なものは、「船・造船」だと説いた。島国の日本に欠かせないものである、と述べ、

「われわれが、『船や造船』を製造したり買うことはでけへん。造船会社がやりよる。そやから、その会社の『株』を買うんや。会社が儲かれば、株主に還元しよる。それが『配当』や。ええ会社は、銀行の利子より何倍も多い配当をしよる。もっと儲かれば、『無償』もしよる。千株が二千になり、三千にもなる。ただし、ええ会社の株を買うんや。」

そして、株式会社は、誰もが社長になれるし、株主になれる。と説いた。

稲は、「株の勉強をしたい」と申し出た。新しい時代を勉強したいと思った。

隠居は、喜んだ。戦前の教師生活を思い出したからだ。

稲は、朝の家事が終わると、子供を連れて、隠居の側で経済授業を受けた。

隠居は、大阪の造船所が多くある、「津守」に連れて行き、造船会社を何件か周り、会社説明の用紙を持ち帰った。

次の日から、総資本、売り上げ、経常利益等々の勉強が始まった。

稲は、わずかずつのお金を貯めていった。

子供には、ほとんどお金がいらず、夫が時々「木津」問屋で仕入れた魚を持ち帰ってきたので、夫の給料の一部と裁縫の内職分が少しずつ貯まっていった。

そして、何とか千株を購入できるお金を貯めて、津守の造船所に出かけた。その日は、ちょうど「進水式」の日で、子供たちは、大喜びして眺めた。

社会が少しずつ明るくなりだすと、稲の裁縫の内職が、忙しくなり、しかも、仕事が速いししっかり縫われていると評判が立ち、ますます仕事が増えていった。二ヶ月後に、もう二千株を買う余裕が出てきた。

一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が開始した。日本国中騒然となった。

そして、それと同時に、あらゆる商売が騒然とした。注文がそれまでの数倍になり、徹夜しても追いつかないほど、注文が入ってきた。世に言う「動乱景気」である。

アメリカで製造するより何十倍も安く製造できたことで、アメリカは、ますます、日本で物資を調達し、朝鮮半島に運んでいった。

それは、もちろん造船にも波及し、船が突貫工事で製造された。造れば造るほど高値で売れた。

造船会社の株価は、ウナギ登りに上がり、これ以後毎年「十割無償」を五年間続けた。



9  

 

夫の勤め先の「八木」も大盛況であった。場所が「道頓堀」であったこともあり、儲かりに儲かった。この当時では、珍しい歩合制であったため、栄一の給与は、二年前の十倍になっていた。

が、半年だけ、社会党が政権を取ったとき、水商売は、すべて禁止になった。

栄一は、毎日、パチンコ屋で時を過ごした。

しかし、それもすぐ終わり、商売はもとに戻った。

栄一と稲は、独立して自分たちの「店」を持つように計画を立てていった。

昭和三十一年、栄一と稲は、千円札を千枚(百万円)、日本橋一丁目の福徳銀行から引き出してトランクに詰め込み、難波の不動産屋に出かけた。

それまでに、二軒の候補地があった。二人は、何度もそこに出かけて偵察をした。

一軒は、千日前の一つ通りを入った、料理屋だったが、繁華街の真ん中で子育てには環境的に不向きだった。

もう一軒は、黒門市場のすぐ近くの大衆食堂の飲食店で、周りは住宅もアパートも工場もあるところだった。

このあたりは「高津町」で、道頓堀から流れてくる横堀の川があり、その川に架かった高津橋の横である。

八月、そこに転居し、店の屋号は、魚八の主人より「八大」と付けてもらって、新しい生活が始まった。

子供たちは、近くの小学校に転校の手続きをし、九月より登校した。

しかし、開店したが客は少なかった。客から話を聞くと、

「丼やおかずは旨いが、うどんの出汁(だし)がもうちょっとやなあ……。」

だった。

栄一は、魚八の主人に相談した。魚八は、すぐに、お好み焼き屋の「ぼてじゅう」の職人を紹介してくれた。その男は、その道の達人だということだった。

栄一と稲は、「ボテジュウ」の店が終わったあとに、「八大」の店に来てもらい、出汁の取り方を教わった。門外不出のコツだったが、「魚八の紹介だから……」と言って出汁の手ほどきをした。

鰹と昆布の量を紙に書いて、焚きつけながらアクをすくいだしていく。小一時間必要で、その後、その出汁を別の鍋に移して寝かすのである。 その出汁は、実に美味しかった。 稲は、その見本を基にして毎朝出汁を研究し始めた。

それ以後、客足は上場だった。

「八大さんとこは、出汁が旨い。」と褒められた、稲を喜ばせた。鰹節とジャコで出汁をとっていたから、勿論である。

ただし儲けはあまりなかった。しかし、「あの店の出汁は旨いで。」と噂が立てば、客がやってくる。そう読んでいた。丼やおかず魚などは、料理屋での腕がものをいった。

しかも、魚は「木津」の卸市場で新鮮なものを、朝早くから仕入れていたので客は喜んだ。この時期から、客も「安いだけではなく、旨い」を求めるようになってきた。

それともう一つ、客が大勢来た理由がある。それは、「テレビ」だった。

この飲食店の元の持ち主は、昔からの飲食店で、戦争で運良く火災に遇わなかったので、戦後の十年間は、「スイトン」から始めて、二十四時間営業で、かなりの儲けだったらしい。

それで、客が喜ぶだろうと、当時では、一部の電気屋しかなかった「テレビ」を店に置いたのである。そのテレビが、そのままこの店に置かれてあった。

だから、力道山の「プロレス」や子供たちの「赤銅鈴の介」「月光仮面」など、客が常時店にいた。

夜はよるで、タクシーの運転手の休憩や食事場所になり、また、水商売の女性が、アパートに帰る前に夜食を食べていた。

一杯八十円のうどんは、近所の昼食か晩ご飯のおかずになって喜ばれた。「すうどん」より「信太(きつねうどん)」が喜ばれていた。

昭和三十年代は、日本国中が右肩上がりだったが、三十三年の夏、突然日清食品の「チキンラーメン」が登場した。食生活では、画期的なもので、湯をかければ、二~三分で食べられる。テレビでも宣伝が流され、一時は注文が抜群に減ってしまった。

が、インスタントと鰹節からの出汁では、味はやっぱり違った。徐々に客は、戻ってきた。

近所に「ミシン製造会社」があったが、景気がよくなるにつれ、毎日残業で、夜食用に「うどん」の注文が何十杯もきた。

また、道頓堀の横堀の川のすべてをマンホールに埋め立てる工事が始まり、その労働者の間食としても「うどん」が売れた。

そのうち、出前も多くなり、家族だけでやっていくのは、無理になった。

栄一は、福井から「中村さん」という若者を、出前持ちで雇った。そのちょっと前から「お~~い中村君、ちょいと待ちたまえ~~。」の歌謡曲が流行り、周りの者を喜ばせた。

何かあれば、「お~~い中村君!」と呼んだ。子供たちも、近所の人も楽しんで呼んだ。

なぜなら、中村君は、必ず福井弁で、「おえ~、だんね、やざぁ~。」と答えるからだ。

意味はよくわからない。本人が緊張してでる言葉らしい。

しかし、よく仕事をする。朝から晩まで、よく働いた。

ただし、ペースはのろくて、マイペースであるが。



次の年(34年)、皇太子ご成婚で沸いた日本は、日米安保条約改定阻止の統一行動で騒然とした。デモで御堂筋は、暴動化していた。

後篇につづく






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