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パープル・サンフラワー(小説)

マルタン丸山


第九章  『ダイアモンドダストの瞬(またた)き』







     1 (検診)一九六八年 ラーゲル(収容所)内





早朝、

吹雪の中をドクター荻野(おぎの)と

医師団を乗せた

病院のマーク入り送迎車は、

ラーゲルに向かった。

日曜休日を返上して、

ラーゲルの囚人たちの検診に

出かけるのだ。

荻野の頭の中で、

今日の手順と今後の行動について、

繰り返し始めていた。

囚人番号「Я(ヤー)85」の

フランス人で

赤毛の『ダニー』に接触し、

脱走計画を告げねばならない。

二重に張り巡らされた

鉄条網の中に車は入り、

管理棟の前で止まった。

所長が医師団を迎え入れ、

応接室に案内した。

中は高級ホテルのようなソファーや

テーブルが配置され、

囚人棟とは比べ物にならない

豪華な造りだ。

休息を終えた後、

医師団は、

管理棟と囚人棟の間の、

スチームによる常夏を思わせる

暖かい大部屋に入り、

検診の用意を始めた。

荻野は十人の医師団に

簡単な指示を与え、

一番奥の椅子に座った。

 囚人達は朝食の後、

部屋のパイプベットの上で、

『むめき騒いでいた』。

それは、こういう理由だ。



 数日前に、

マイナス四十一度の気温によって、

『労働中止』になった日の、

振り替えとして、

月に一度の日曜休日に、

労働の命令が出されたからだ。

囚人たちは、

「ラーゲルの法律」や

「所長」を罵(ののし)った。

が、ラーゲルの掟である

「絶対服従」には勝てない。

ダニーが、いつものように、

指令室からの伝言命令を聞く為に、

連絡室に入った。

ところが、

この日の指令室の看守は、

当日の作業現場と

労働内容の指示ではなく、

各班長に一枚の用紙を配った。

 そして読みながら説明し始めた。



……  「『国家保安委員会及び

ソビエト連邦軍指令部』より、

ソ連国内ラーゲル囚人に伝達する。

 本日、各囚人は、

午前中身体検査を行い、

その結果、

精神的肉体的に良好状態、

すなわち、

健康状態である者は、

名誉ある『ソビエト連邦軍部』に

『召集』されることになった。

そこまで読まれた時には、

各班長の中から

「どよめき」が起こった。

「私語は慎め!……班長は……」

看守は声高に続けた。

 「なお、服役期間に、

それに相当する

『軍部での功績ある者』は、

その後の『市民権』が復帰し、

逮捕日以前の生活が『保証』される。……」

そこまで読まれた時には、

各班長の中から歓声が起こった。

そして、

『市民権』を口々に叫んだ。

「私語は慎め!……班長は……」

看守は、また静止させて、

声高に続けた。

「……班長は、この旨を

各班全員に連絡し、

必ず検査を受診するように

伝えてもらいたい。

なお、本日の労働は

『午前中は免除』し、

午後の半日だけ、

昨日と同じ労働に従事すること。

以上!」

班長達は、また歓声を発して、

そしてぞろぞろと連絡室を出た。

それぞれの班長は

喜びが隠せずに、

浮き足立って廊下を歩いていた。

ダニーも、吹雪が襲う

トタン屋根の廊下を通って

部屋に帰りかけた。

が、ダニーだけは、

何か腑(ふ)に落ちない気持ちで

歩いていた。

部屋に帰ると、

「外人部隊」の連中は、

一通りの不平を鳴らし終えた

後だったのか、

パイプベットの中で、

かすかな寝息を立てていた。

「みんな起きてくれ!」

ダニーが叫んだ。

全員がのそのそと起きあがり、

上のベットの者は下に降りて来て、

ダニーの言葉を待った。

「まず、今日の労働だが・・・、

午後の半日だけになった……。」

外人部隊は、

そこで大喜びして歓声をあげた。

ダニーはみんなの声が

おさまって言った。

「……午前中に検診がある。……」

「検診?」

誰かが大声で尋ねた。

「まあ、最後まで聞いてくれないか。

それから質問してくれ。いいか?」

みんなは納得して、ベットに腰かけて、

またダニーの言葉を待った。

ダニーは、さっきもらった

紙切れを出して、

読み上げた。

全員静かに聞いていたが、例の

 『その後の市民権が復帰し、

逮捕日以前の生活が保証される』

 の部分で、

外人部隊は飛び上がって

歓声を上げて踊りだした。

「やったぜ、やったぜ、

国に帰れる!」

 誰かが叫んでいた。

そして、抱き合って涙を流しだした。

興奮は永く続いた。

ダニーは、新入りの

アメリカ人の『ビル』に

英語で通訳した。

ビルは、頭をかかえて考え込んだ。

アメリカ人がソ連兵になるなど

考えてもいなかったのだ。

興奮が収まりかけた頃、

誰かが言った。

「ちょっと待てよ、

何かが変だな。

俺たちゃ、十八歳から二年間、

みんな召集され、

軍事訓練を受けてる。

このソ連じゃ、

昔も今もみんなそうだ。

軍人がありあまってる。

なのに何故、

囚人まで軍人にするんだ?」

「……あの訓練は厳しかったなぁ……、

しかし今の生活と比べれば、

どれほど天国か……」

「いや、そういう意味じゃなくて、

あの時はただの訓練で、

戦場には行っていない。

行った所は、国内か同盟国だ。

それなら十八歳の小僧っ子で十分だ。

それがどうして俺たち『囚人』が

軍人になって、

同盟国に行く必要があるんだい?」

「うーん、なるほど・・・

言われてみればそうだ。」

ウズベク人とタジク人との

会話らしい。

そこにカザフ人が入った。

「しかし、軍人は

たっぷり飯が食えるぜ!」

「そうじゃなくて、まあいい、

飯のことで言うなら、

モスクワは、わしらのような囚人に、

なんで飯をたっぷり

食わせるようなことをするのか?だ。

その理由がわからんのだ。」

 「そりゃー、今の小僧っ子達の

働きが悪いとか・・・・・・

なるほど、そう言われてみると変だ。

あのモスクワの役人は

朝から酒を飲み、うまい物を食い、

そして労働者ときたら、

昼から酒を飲み、

働かずにその時間さえおれば

賃金を貰う。

しかし、軍人と囚人に対しては、

鞭でしごいて働かせる。

軍人の働きが悪いなんてありえない。」

「……だろう?するとだ!

何かわけがあって

軍人を増やす必要があるんだ、

モスクワには……。」





「戦争……?」

「戦争か!!」

エストニア人が口を入れた。

彼らは普段、

会話らしい会話をした

ことのない人物だ。

宗教が異なることから起こる

民族のこの不調和音は、

地球上では

『解決不可能な問題』であることが、

この小さな収容所で証明されていた。

が、

こと『戦争』に関する話題だけは

違っていた。

「わからんが、何か変だ……。」

「戦争なら、中国とだなぁ!」

突然雄弁になったエストニア人が言った。

「中国は『文化大革命』か

何かをやり始めた。

二年前の一九六六年からだ。

これがまた、

モスクワに反抗するすごい

『革命』らしい。

『毛沢東(マオツオトン)』を

讃える革命らしいが、

人殺しのスターリン時代よりも

厳しいらしい。

党の第一書記の

『ブレジネフ(ソ連第一書記)』は、

『毛沢東(マオツオトン)』を

目の上の瘤(こぶ)のように思ってる。」

「戦っても北京には負けんだろう、

モスクワは『水爆』を持ってるからなぁ。」

「北京も『原爆』を持ってるらしい。」

「すると『核戦争』か……」

「……だとすると、俺たちゃ、

核爆発の後の第一陣として、

北京に攻め込む兵士か……」

「核爆発って、すごいらしいが、

攻め込んだ俺たちゃ、

大丈夫なんだろうなぁ……。

班長、どう思う?」

考え込んでいたダニーに、

モンゴル人が尋ねた。

「パープル・サンフラワー・

栗須の国の

『ヒロシマ』に行ったことがある。

『原爆資料館』で見たものは、

この世の地獄としか

思えないすさまじいものだった。

瓦やコインが溶けて、

鉄の塊のようになっているのが

置いてあった。

そしてもう一つ恐ろしいのは、

核が爆発した後に降ってくる

『黒い雨や灰』だ。

人間がそれに触れるだけで、

血液がやられ死んでいく。

その 『黒い雨や灰』は、

一ケ月は降り続けるらしい。」

ダニーは、そうロシア語で言った後、

ビルに英語で通訳した。

ビルが言った。

 「ニューヨークの

『国連ビル』の中で見たよ。

ヒロシマの写真と

溶けたコインや陶器や瓦を……

悲惨だった。

アメリカが一九四五年に

『リトル・ボーイ(原爆)』を

『ヒロシマ』と『ナガサキ』に落とした。

数十万人が一瞬に死に、

今も数万人が

白血病などで苦しんでいる。」

 ダニーがみんなに、

ロシア語で通訳した。

「俺はいやだ!

召集されて戦場に行くなんて……。

俺はモンゴルに帰って

国を再建するのだ。」

モンゴル人のグオルが言った。

「まだ、核爆発の戦場に

行かされるとは、

かぎってないぜ!」

「そうだ、核戦争じゃなくて

銃撃戦かもしれん。

わしゃ、銃にかけては名手じゃった。」

 カザフ人が言った。

その時、マンスノバじいさんが、

思い出したように話しだした。

「前の班に一人いたぞなぁ……。

うーん、たしか、

アフガニスタンの戦いかのう。

中央アジアのラーゲルから召集されて、

喜んで戦場に行ったらしい。

ところが、激しい戦いじゃった。

ゲリラが真夜中に

陣地に襲ってくる。

彼はやみくもに撃ちまくった。

恐怖のドン底じゃったらしい。

その時のことが毎夜夢に出てくると

言っとった。

半年間砂漠の戦場にいて、

同士の囚人兵は、

三分の二が死んでしもうた。

そして三分の一の

生き残った囚人兵は、また、

各地のラーゲルに送られよった。

彼はこのシベリアのラーゲルに……。」

「じいさん、それじゃ、

約束が違うじゃないか?

 『兵役期間が終われば

市民権が復帰して……』

 ……じゃないのか?」

 「御上(おかみ)のすることは、

わしにゃわからんよ。」

「俺も『モスクワ』は信じられん。

みんなはどうだ?」

モンゴル人のグオルは、

一人ひとりに聞いて回った。

 モスクワの御上の通達を『信じる』、

あるいは『信じたい』、

と言ったのが十八名、

『信じない』と言ったのが、

マンスノバじいさんとダニーとビル、

それにバルト三国の三人と

グオルの合計七名だった。

 しかし、

信じようが信じまいが、

検診を受け、

召集されることだけは間違いなかった。

グオルがマンスノバじいさんに尋ねた。

「召集されないようにするには、

どうすればいい?」

「そりゃー、医者に言うのじゃなぁ。」

「なんて?」

「まあー、神経痛とか痔(ぢ)とか……、

そう、それより伝染病がいいな!」

「どんな伝染病?」

「軍人だけがかかる伝染病。

軍隊に拡がれば軍部が壊滅するような……」

「軍人伝染病か・・・

それなら『モスクワ伝染病』の方がいい。」

「なんじゃそりゃー。」

「モスクワの指導者だけが

かかる伝染病で……」

「そりゃーだめじゃ!」

「どうして?」

「もう奴らはかかっとる。

そうじゃから

真面目な一市民である我々を、

ここに入れたんじゃ。

指導者だけが裕福に暮らし、

市民を苦しめるこの独裁は、

まさに病気じゃ。」

「なるほど、それじゃ、

この『モスクワ伝染病』を治す薬がいるね。」

「そう、あのなんでも治す

『 ペ ニ シ リ ン』に匹敵するような薬!」

「誰か、

『モスクワ病』を治す薬はないかな?」

「あるぜ!」

奥の方のキルギス人が言った。

「あることはあるが、

モスクワの連中が占領してる。」

「それは、なんて薬なんだ?」

「『 ク レ ム リ ン 』!」

誰かが、くすっと笑ったが、

その後、

全員がしらけたように眠りに入った。





一時間後、

「外人部隊」は廊下に出て点呼を受け、

検診場に一列に並んで入った。

中はスチームが最強の暑さにされ、

別世界だった。

 二十五名は、指示される通りに

分厚い手袋から、

コート・囚人服と脱ぎ捨て、

裸になった。

そしてお互いの身体を見て、

吹き出してしまった。

その身体は

骨だらけで見る影もなかった。

まるで袋からでた

蓑虫(みのむし)のように

三分の一になった身体は、

着膨れした本人とは、

想像もつかない人物だったのだ。

ダニーはまだ筋肉を肩につけていたが、

一時よりは痩せていた。

ビルは入所してわずかなので、

正常な肉付きだった。

係り官に囚人番号で呼ばれ、

順に奥の診察室に入って行った。

ダニーが呼ばれて、

中に入った時、

 「一番奥に来るように』

 という声がした。

係り官は、

ダニーを奥に連れて行き、

老医師の前の椅子に座らせて、

もどって行った。

「大きく息を吸って!」

老医師は低いロシア語で言った。

ダニーが何度か聴診器に合せて深呼吸し、

後ろ向きになって

背中にあてられた。

 その時、突然、

耳元で老医師が何か言った。

が、それが何を言っているのか、

まったく分からなかった。

老医師は、また呟いた。

それが『日本語』で

あることに気付き、

驚愕(きょうがく)した。

 老医師は、耳元で小声で話し続けた。

「……君は、日本語が、

理解出来るそうなので、

日本語で、手短に、述べる。

私は、日本人の、

『Щ(シチャ)7・パープル・

サンフラワー・栗須』の、

主治医だ。

彼は、『生きており』、

私が『匿(かくま)っている』。」

  そこまで言って、

やや大きめの声のロシア語で言った。

「分かったなら、

大きく息を吸って……」

 ダニーは、

ありったけの空気を肺に送り込んで、

そして思い切り吹いた。

老医師は続けた。

 「君に、ラーゲルでの生活を、

感謝していた。

そして、君を、このラーゲルから、

『脱出させたい』、と願っている。」

そこまで言って、また、

やや大きめの声のロシア語で言った。

「分かったなら、大きく息を吸って……」

ダニーは、

ありったけの空気を肺に送り込んで、

さっきより大きく息を吹き出した。

 正面に向き直った時、

老医師の目を見た。

彫りの深い、誠実そうな黒い瞳が、

ダニーを見詰めていた。

ダニーは言われるままに、口を大きく開けた。

老医師は、奥を覗き込みながら、

また、日本語で言った。

「君の作業場は、

同じ場所かね?」

 ダニーは、へらのような

舌圧子(ぜつあつし)で

舌を押さえられていたが、

喉の奥で

 「ダー」

 と言った。

老医師は、

グレーの瞳のダニーの片方の目を開け、

また、日本語で言った。

 「二日後、

その場所に、

『Щ(シチャ)7・パープル

・栗栖』が行く。

彼の指示に従えば、君は、

国外に、脱出できるだろう。

分かるか?」

ダニーは、

片方の目でウインクした。

そして小声の日本語で言った。

「ワタシノ、ホカニ、

スウメイ、イル。」

「数名?」

老医師は、自分の目を大きく見開いた。

「ウイ!」

老医師は、

背もたれに深く身体を寄りかかって、

首を振りながら、

『数名!』を繰り返した。

ダニーは頷いた。

その時、

係り官が老医師の側に来て言った。

「ドークタル、どうされましたか?」

「いや、大丈夫だ!」

老医師は、そう言って、

ダニーの下半身を診察しだした。

係り官が戻って行った時、

老医師はロシア語で言った。

「『数名』。

なんとかしょう。」

そして、ダニーを正面に向け、

終わりの合図をした。







2(決行)



『決行』の日が来た。

 この数日間、

ドクター荻野は、

中国系ロシア人と接触していた。

中国とソ連を行き来する、

秘密ルートに関する

情報を手に入れていた。

 しかし、荻野にとって、

耐えられないほど

悲しいことがある。

それは、

『娘のスベトラナ・光子』と

    別れねばならないことだ。

黒塗りの車が、

この数日間

公然と「光子」を『尾行』し続け、

いつ連行されても不思議ではなかった。

『K・G・B(ソビエト連邦

国家保安委員会)』に

目を付けられた者は、

たとえ、荻野の人脈を

最大限使ったとしても、

収容所送りにならない保証など、

どこにもない。

そして、収容所から

何時出所できるかなど、

誰にも分からなかった。

『栗須と一緒に、

国外に脱出させる!』

そう決心したのは、

数日前だった。

 母親は泣きに泣いて反対した。

が、

「収容所」と「国外亡命」とを

考えたとき、

母親にとって「

収容所」に娘を送るなど

考えられなかったため、

しぶしぶ認めだした。

 光子は、戸惑いの中で、

何か訴えかけたが、

うつむいて沈黙していた。

栗須は、

ドクター荻野がダニーから聞いた、

「数名」を頭で描いた。

国に帰るための地下組織があり、

しかも、

国に帰っても同じ同士がいる者でないと、

脱走しても意味がない。

栗須は頭の中で、

ダニーとモンゴルのグオルと

キルギス人の三人を描き、

荻野に「数名」とは、

「三名」ぐらいだろう、と述べた。





荻野は中国系ロシア人に、

国外脱出には、

娘と栗須、そしてその他三名で

「五名」になると連絡し、

衣服を三人分買い求めた。

そして、昨夜、

父親譲りの娘の髪を、

男の髪型に切りそろえた時、

荻野は初めて涙を流した。

 「栗須君、

君の名字をどこかで聞いた

覚えがあるのだが、

思い出せない。

君の父上は、

どちらのご出身かな?」

 「……現在、大阪に住んでおります。

満州の大連から引き上げて……。」

「満州、大連?」

 「はい。」

 「君は何歳になる?」

 「1946(昭和二十一)年生まれの

二十三歳です。」

 「戦後生まれ……。

お兄さんかお姉さんは

いらっしゃるか?」

「はい、1944(昭和十九)年

生まれの兄が……。」





 荻野は、大連の『あの時』を

思い出した。

ハルピンから大連まで

共に行動した「上等兵」には、

一歳位の子供がいた。

すると、ひょっとして

あの「上等兵」の子供さんかも……。

荻野の頭の中に、

 「日本で会おう。」 と約束した

上等兵をはっきり思い出した。

彼は無事に

日本に帰っていたことを喜んだ。

 「君の父上と私は、

戦友だったと思える。

君が日本に帰ったなら、

荻野軍医は、

元気に生きていることを

伝えてくれたまえ。

娘をよろしく頼む。」

と言って、頭を下げた。




 母親は、最後の晩餐に、

取って置きのロシア料理を作って、

娘と栗須に食べさせた。

そして、栗須に、

やはり涙で娘のことを頼んだ。



   その後、ドクター荻野は、

栗栖の傷口を診た。

傷痕の皮膚は、きれいに付着し、

あのトナカイの糸が、

優秀のものであることを証明した。





早朝五時。

 光子は、

涙で両親に別れを告げた。

『K・G・B』の黒塗りの車が来る前に、

栗須と光子は、

病院のマークの入った

救急車に乗り込み、

吹雪の中を出発した。

救急車の方が、

スピードを出して走ったとしても

怪しまれない。

難点は、

監視員に発見されやすいことだが、

吹雪ならば、

白塗りである車の方が目立たない。





真暗闇だった。

 この国の冬は、

太陽が三時間だけ顔を出し、

後のすべては、

闇が支配していた。

吹雪がその闇の命令に従って

吹き付けた。

栗須らが持てる領地は、

車のライトに照らされている

四~五メートル先までだった。

しかも、

闇の口から吹き出される『吹雪』は、

まるで夏の夜空に

打ち上げられた『花火』が、

大きく広がり

無数の火の粉となって落下し、

フロントガラスに雪の炎を

打ち付けたように、

視界を遮(さえぎ)った。

 栗須は凍結した道路を、

慎重に運転した。

二日前の荻野の収容所までの記憶と

以前の栗須の記憶によって

書かれた地図が、

光子の手に持たれていた。





外人部隊は、その日、

いつものように朝食をすませて、

八時に収容所を出発した。

が、ダニーは憂欝(ゆううつ)だった。

 班長連絡時に、

突然、

『外人部隊』の作業場が

変更になったのだ。

まるで、

ダニーの『脱走』を知って

妨害しようとでもするようだった。

 作業場は、昨日までの場所から

ワンブロック離れている。

しかし、

パープルに連絡は取りようがない。

しかも、

まだ『脱走』については

誰にも話していない。

凍結した道路を歩き、

吹雪を

襟(えり)でよけながら考え込んだ。

 そして、歩きながら、

隣のビルに英語で言った。



「今日、俺は『脱走』する。

君は一緒に行く気があるか?」

アメリカ人のビルは、

突然のダニーの言葉が、

吹雪にさえぎられて

聞き取れなかった。

  ダニーは、ゆっくり言った。

「今日、『脱走』するなら、

『一緒』に行くか?」

ビルは、左手の手袋を上げ、

親指を突き上げた。

ダニーは、歩きながら、

残りの『外人部隊』の一人ひとりに

同じ質問をしていった。

 その時の彼らの頭の中は、

次の三つが浮かんで回転した。



『脱走』そして『自由』。

『逮捕』そして『独房』。

『戦場』そして『市民権』。



 一緒に行くと言ったのは、

ビルとモンゴルのグオルと

マンスノバじいさんとバルト三国の三人と

ウズベクのコンザス、

そしてキルギス人だった。

 ダニーはまた考えた。

 『俺を入れて九人か……、

車なら二台いる。

この計画は、やはり御破算か……』

「外人部隊」は、

昨日までの作業場を横切り、

ワンブロック北の道路につき、

配置についた。

笛が鳴り、

穴堀りが始まった。

冬将軍の吹雪が

嘲笑するかのように吹き付けていた。





十一時三十分。

 ようやく

あたりは明るくなってきたが、

吹雪はなおも

救急車に襲いかかっていた。

栗須は、

予定の場所より

二キロ手前で車を止めた。

早く行っても

十二時の監視員の休憩まで

待たねばならない。

 光子が紙袋の中から、

パンとチーズと乾燥肉を出して

栗須と分け合った。

温かいスープをポットから

注ぎ、代わるがわるに飲んだ。

ダニー達にも残しておいた。

 光子が言った。

「これがピクニックだったら……」

だが、後の言葉は出なかった。

彼女はこれから起こるであろう

予想も出来ない不安で、

胸がいっぱいだったのだ。





十二時五分前。

 車は走りだした。

その時だった。

吹雪が止まり、

幽かな太陽の光によって

静止した真空の風景が

目前にあらわれ、

すべての空気が輝き出した。

金・銀・赤・ビロード・

ブルー・黄色が、

無重力の宇宙遊泳のように

浮き上がり、

世界中のカラー螢が

この作業場に集合し、

スローモーションで見るように

飛び交いきらめいた。

車は、

その「ダイヤモンド・ダストの瞬き」

の中に溶け込んで、

宇宙のスペース・シャトルのように

ゆっくり進んだ。





「変だ!!」

栗須が、日本語でつぶやいた。

光子が栗須を見て

日本語で言った。

「空気が凍ってるのよ。」

「いや、そうじゃなくて、

作業場に誰もいない!」

「場所を間違えたのじゃ……」

「この通りに間違いないはずだ。

見覚えがある。

……あの建物は別の班が

工事をしていたし、

この部分は間違いなく

ぼくたちの班だった。」

栗須は車を注意深く、

ゆっくり走らせた。

だが、囚人達はどこにも見えない。

「ダニー!どこにいるんだ!」

車は誰もいない作業場を

通り過ぎた。

「計画は失敗だ。

ダニー、悪いが、

どうしょうもない!」

車は、右に回り、

落胆したようにもっとゆっくり

『ダイアモンド・ダスト』の中を

走った。

もはや、

ダニーを捜す術はなかった。

今日以外に、

そしてあの場所以外に

『脱走』はありえない。

車は『絶望』に撃ちひしがれて、

また右に回った。

その時、

光子が叫んだ。

「誰かいる!」

二百メートル先の

道路の真ん中で、

腰まで穴に隠れ、

上半身だけが

周りの鮮やかな色彩に覆われて、

『輝いている男』がいた。

車はゆっくり近付いて行った。

男は右手を上げた。

光子が叫んだ。

「胸に『Я(ヤー)85』の

番号が!」

「ダニーだ!」

栗須は車を止め、

光子と運転を代わって、

助手席から後部に移り、

バックのドアーを開けた。

車はまたゆっくり前進した。

車が穴の横を通った時、

ダニーが穴から飛び出して、

後部から手をさしのべた

栗須の手を握りしめ、

飛び乗ってきた。



二人はがっちり抱き合った。

次の穴からビルが飛び出し、

栗須の手を握って、

車の中にころがり込んできた。

 栗須は、

一瞬面食らって手を離そうとした。

ダニーが叫んだ。

 「アメリカ人のビルだ。

俺たちの仲間だ。」 

「サンキュウ、ベリマッチ!

マイネイムイズ『ビル』」

「アイム『クリス』……」

 彼らは、握手を交わした。

次の穴からグオル、

次はバルト三国の三人、

それからウズベク人にキルギス人が

乗り込んだ。

ダニーが言った。

「あと一人だ!」

「九人?」

「あゝ、予定より多くなった。」

「服は三人分しかない。」

「なんとかなるさ!」

車はゆっくり走っていた。

そして、マンスノバじいさんの

穴の横を通りかかった。

「じいさん!乗りなよ。」

「……。」

「じいさん!早く乗れよ!

自由が待ってるぜ!」

穴の中の、

マンスノバじいさんが出てきた。

口の中で、何か言っている。

ダニーと栗須が、

手を差し出した。

栗須がロシア語で言った。

「じいさん、久しぶりだね。」

じいさんが手を差し出し、

栗須の手を握ろうとしたが、

すぐに手を引っ込めてしまった。

車はゆっくり走っていた。

「マンスノバじいさん!

幽霊じゃないよ。

じいさんを助けに来たんだ。

早くしないと監視員と犬が来る。

ラーゲルに戻りたいのか?」

「急げ!」

ダニーが叫んだ。

じいさんは少し走って

車に追い付いた。

だが、手を出さなかった。

口の中で何か言っている。

ダニーが栗須に、

逆の手を持ってもらい、

じいさんの肩をつかもうとした。

しかし、

じいさんは歩くのを

やめた。

車はゆっくり走っている。

そして、

泣きながら言った。

「みんな、

うまく逃げてくれ!

わしゃー……ダメじゃ。

わしゃー恐いんじゃ。

わしゃー、

娑婆(シャバ)の生活を

忘れてしもうた。

ラーゲルの生活しか

知らんのじゃ!

シャバで生活できん

人間なんじゃ。

みんな、元気でな!」

じいさんは、

ゆっくり離れて行く車に

手を振った。



「じ・い・さーん……!!」

車からダニーの声が響いた。

それぞれの穴の中から、

他の外人部隊の連中が

立ち上がり、

くるまを見詰めていた。

カザフ人もアゼルバイジャン人もいた。

みんな車を見詰めていた。

そして、

車が横を通り過ぎた時、

『別れの合図』を手でおくった。

ダニーの声で、

車はスピードをあげて

走りだした。

ぎっしりつまった救急車の後部から、

ダニーが前の運転席に、

顔を覗かせて言った。

「これからの計画は、

どうなっている?」

運転手がちょっと振り向いた。

ダニーが、その顔を見て、

『女性』であることを知って驚いた。

 光子が言った。

「ここから

ハバロフスクの郊外を走って、

アムール川の側で

別の車に乗り換え、

中国側に渡る予定よ!」

ダニーは、

後部の男達にそれを繰り返した。

すると、

バルト三国のエストニア人が言った。

「俺たちゃ、

ハバロフスク駅まででいいよ。

そこに同士がいる。

服は手に入る。」

「ぼくもハバロフスク駅でいい。

モンゴル人街に行けばなんとかなる。」

グオルが言った。

「服のことを気にしてるのか?

服はなんとかする。」

栗須がロシア語で言った。

「いや、そうじゃない。

ぼくはモンゴルには、

モンゴルの仲間と

列車で帰りたいんだ。」

「分かった!」

栗須が運転席に行き、

光子に

ハバロフスク駅に行くように言った。

車は、猛スピードで

『ダイヤモンド・ダスト』の中を

走って行った。

 みんなは、

食料にむさぼりついた。





三十分走って、

服を着替えたダニーが

運転を交代し、

また猛スピードで走った。

「今ごろ、

俺達がいないことを知って、

監視員は

びっくりしているだろうな。」

「あと三十分もすれば

収容所から

『追手』が出動する。

それまでに、

差をつけておかなければ……」



ダニーは独り言のように

つぶやいた。

 助手席の光子が、

地図を見ながら方向を指示した。

一時間後、

ハバロフスク駅の裏手に

車が着いた。

バルト三国の三人とグオルは、

別れの挨拶をして

車から降りて、

『ダイヤモンド・ダスト』の中に

消えて行った。



車はまた発進した。

「見ろ!駅の向こうの列車を!」

ダニーが叫んだ。

そこには、列車に乗せられた

真鍮(しんちゅう)色に輝く

『大型戦車』が数百台、

遥か彼方まで並べられていた。

「やっぱりモスクワは、

北京とやる気だ!

ハバロフスクだけで

これほどの戦車なら、

ひょっとすると中国との国境には、

何万台と

集結しているかもしれん。」

「一般人は、

アムール川沿いでは

立入禁止になってる。」

と栗須が言った。

ビルが続けて英語で言った。

「囚人の召集は、

緊急だったんだ。」

車は猛スピードで走り続けた。

追手が来る前に

『中国』に入りたかった。





ダイヤモンド・ダストの瞬きが

どこまでも続いていた。

 光子は、

ドクター・荻野の

几帳面な文字で

木目(きめ)細かに書かれた

地図を見ながら、

ダニーに指示した。

光子は、

その文字から

父親の愛情をひしひしと感じた。

車が

ハバロフスク市内を離れていく時、

光子は目に涙が溜まるのを押さえた。





車は、

市内から数十キロ離れた

郊外の団地に走り込んだ。

五階建の建物は、

二年前の中国の

『文化大革命』時に、

中国から流出した難民が

数多く住んでいた。

 ソビエト政府は、その当時、

強力に阻止したが、

中国人達は生死をかけて

アムール川を越えて

この地区に住み込んだ。

ソ連政府は、

国連の常任理事国である手前、

流れ込んだ難民だけは

この一角だけに住まわせた。

無論、居住権を与えるために、

かなりの賄賂(わいろ)と

持参金と貴金属を

没収していた。





一つの棟の裏側に

救急車が止まったのは、

ダニー達が乗ってから

三時間が過ぎていた。



棟の影から

『六十歳前後の中国人』が出て来て、

運転席の中を覗き、

片言の『日本語』で言った。

「ミナサンハ、

何人テスカ……?」

栗須は

 「六人」

 と答えた。

沈黙があった。

「先生カラ、

五人トキイテル、

一人、多イ……。」

「だが、六人になった。

なんとか……。」

「タメ!一人オオイ、

乗レナイ!

車、一台、

ワタシ運転、

アト五人タケ!」

光子が全員に

ロシア語で通訳し、

ダニーは、

ビルに英語で言った。

全員は顔を見合わせた。

キルギス人が独り言のように

つぶやいた。

「ハバロフスク駅で

降りればよかった。」

また、沈黙があった。



「わたしが降りるわ!」

突然、

光子のロシア語が聞こえた。

全員が光子を見詰めた。

栗須が言った。

「何故?……、

君は『K・G・B』に!……。」

「いえ、私が降りれば、

みなさんは

自分の『故郷』に

帰ることが出来る。

私の『故郷』は

ここなの……

このハバロフスクよ!

父も母もいるわ。

この故郷のハバロフスクを

捨てるわけにいかないの……。」

栗須が制止したが、

光子の目から、

押さえ続けていた涙が

とめどなく流れ落ち、

興奮はおさまらなかった。





 沈黙が続いた。





ダニーの顔に『絶望感』が漂った。

『老中国人』が、

栗須を見ながら言った。

「コレ私ノ車。

仕事ニイル。

トテモ大事。

テモ、

先生ノオ嬢サン、

中国ニ連レテ行ク、

『約束』。

先生トノ約束、

モット大事。

先生ニ、

中国デモ、

ソ連デモ、

私ノ命、

家族ノ命、

救ッテモラッタ。

先生トノ約束、

敗レナイ。

……日本人ノオマエ、

運転出来ルカ?」

老中国人は、

栗須の目を見続けた。

栗須はうなずいた。

「ナラ、

私ツライケト、

車、

アキラメル。

車、

ソ連、

トテモ高イ。

中国ニ行クト、

モドセナイ、

ツライケト、

オマエニヤル。

私、降リル。

ミンナ、

乗ッテイク。

六人乗レル。」





六人は『救急車』から降りた。

老中国人は、

コートを着ていないキルギス人に

自分のコートを着せ、

自分の『帽子』を脱いで手渡した。

車のライトに照らされた

丸坊主の頭を摩りながら、

自分の車に導いた。





 車は、一九五十年制の

古くなった中国産の

小型乗用車だった。

 ダニーと栗須とビルが前に、

光子とウズベク人とキルギス人が

後ろに乗った。

 老中国人は、

簡単な地図と

『袋』を栗須に渡して言った。

「モウスグ、

真ッ暗ニナル。

コノ地図ノ

通リ、行ク。

建物アル、

ソコテ、

コノ袋ノ中、

大事ナ、

手紙アル。

トテモ大事

ナモノ。

見セル。

間違エルト、

タイヘン、

必ズ行ク。

……ワタシ、

救急車、

今晩、

先生ニ返ス。」





『 老乗用車』は、

よちよちと走りだした。

ガソリンは満タンだが、

六人の体重を

辛うじて支えるような

走り方だった。

 もう、

『ダイヤモンド・ダスト』は消え、

すべてを

『深い闇』が包もうとしていた。





ライトをつけて

凍った道路を走ると、

タイヤが擦り減っている為か、

『地獄』の中を

『滑り込む』ような想いを

全員が感じだした。





 沈黙が続いた。



高鳴るエンジンの音だけが

暗闇を走った。

ダニーは

用心深く走った。

が、

時々,タイヤのスリップが

起こりだした。

「ちくしょう!」

ダニーがつぶやいた。

ビルが、英語で言った。

「運転をチェンジしようか?」

「君は、この『ポンコツ車』と

『凍結道路』に、

『自信』があるのかい?」

「『自信』とまではいかないが、

東海岸のオーランドで

アルバイトしたことがある。」

「アルバイト?」

「ああ、

『自動車曲芸団』に

二ケ月いた。

ジャンプ・回転・

水中潜り・氷すべり……

いろいろやった。」

ダニーは、

口笛を吹いて

車を止めた。

「チェンジだ!」

ビルが運転席に座って、

車は発進した。





ダニーの運転より

横ぶれが少なかった。

「やるじゃないか!」

「まあなぁ!

スクランブルもできる!」

そうビルが言うと同時に、

エンジンをふかし、

ハンドルを逆回転させた。

 車は、

道路の上を

右側に回転し、

後ろ向きになり、

また左側から元の前進に

一回転して走った。

中の六人は、

身体を車の向きに

振り回され、

沈黙をやぶって

叫び声をあげた。

「わかった!ビルの腕を認めよう!」

車は、また、

沈黙の中で闇を走った。





一時間ほど

走った時だった。

後方から突然、

強烈な『サイレン』が

鳴りだした。

『ソビエト国境警備隊

機動部隊』のサイレンだ。

 ビルは思い切り

アクセルを踏んだ。

中国側に行く目印の建物は、

まだ見えなかった。

 その時、

前方から黒塗りの乗用車が、

突進して来た。

 光子が叫んだ。

 「『K・G・B』!!」

「この『ボロ車』じゃ、

逃げられないな。」

ビルが言い、

ダニーが答えた。

「右におれて、

なんとか

『アムール川』に行くしかない!」

ビルは、

一気に『スクランブル』しながら

右にハンドルをきった。

道路から出た車は、

凍てついたガタガタの

雑木林の間に入った。

 全員が、

天井やドアーに

身体を何度もぶつけた。

ビルは、

急ハンドルをきりながら、

大木を避け穴ぼこを

飛び越え、

十五分程走り続けた。

 サイレンの音が

幽かに鳴っている。

雑木林に

入ってこれないらしい。

 が、

黒塗りの乗用車は、

ぴったりと後に付いて来る。

「つかまれ!!」

 ダニーが突然叫んだ。

車は、次の瞬間、

無重力の状態になり、

空中を飛んでいた。

 そして

十メートル落下して、

強烈な衝撃が

『老乗用車』と『乗客全員』に

打ち付けた。

だが、車は、

奇跡が起こったように、

氷の上を滑走していた。

 黒塗り乗用車は、

哀れに頭から落下し、

炎上した。

ダニーが

うめきながら言った。



「アムール川だ!」



 片方だけになったライトは、

遥か彼方の

氷平線まで照り輝き、

一本の光線となって

続いていた。

「みんな大丈夫か?」

ダニーが後部を見ながら言った。

「やった!アムール川だ。」

後部のキルギス人が言った。





車は、滑走から自力で

また走りだした。

「俺達もこの車も、

見掛けによらずガンジョウだ。」





どこまでも

氷の川面が続いている。

六人は、一本の光線に、

自分達の人生をみた。

そして、

『自由』への滑走を感じ始めた。





その時、

真っ白なライトが

四方から照らされ、

『老乗用車』は、

真っ暗な氷の川面に

浮かび上がった。

 振り向くと、

数十台の『装甲車』から

サーチライトが照らされ、

『真ちゅう色の戦車』が数十台、

川岸から川面に進入してきた。



次の瞬間、

一台の戦車から

真っ赤な火の弾が飛び出し、

『老乗用車』の周りに飛び交い、

氷の川面に跳ね上がって

消えて行った。

その後から

機関銃の音が響きわたった。

 ビルは、

左右にハンドルを回転させながら

走り続けた。

ロシア語が拡声器から響く。

『すぐに停止せよ!

それ以上前進すると、

君達の命は保証しない。

すぐに停止せよ!』

ビルはジグザグに前進していた。

 が、『老乗用車』の数メートル先に、

ロケット砲弾がサク裂した。

『氷と炎とサーチライト』が飛び散り、

鮮やかな『紛塵』が舞い上がった。

それは、

まるで今日の昼間に見た、

あの『ダイヤモンド・ダスト』と

そっくりな色彩で

浮かび上がった。

その中を『老乗用車』は、

アップダウンしながら

走り続けた。

何発もの爆発音は、

数秒遅れで

耳元に聞こえて来る。

その後、

左右前後に

『ロケット砲』がサク裂し、

周りは昼間のような明るさに輝き、

あらゆる色彩が

真空の中を漂った。

「見ろ!」

ビルが叫んだ。

 前方遥か彼方に、

中国の『白灰色の戦車』が

数十台並んでいるのが見えた。

中国語が響いてきた。



『ここは、

中国領土である。

君達は、今、

中国の国境を

『侵犯』した。

速やかに停止せよ!』

 その時、右後方から、

猛スピードの

『ソ連氷上戦行車』が

『老乗用車』に突進してきた。

 ビルは、

ハンドルを極端に回転させた。

『老乗用車』は横転し、

逆様になりながら一回転し、

着地して停止した。

周りにロケット砲が飛びかった。

 車中の六人は、

身体を車体に打ち付け、

ガラスの破片を被った。

『氷上戦行車』は、

急カーブをきり、又も、

凸凹の老乗用車に

突進してきた。

まるで、『老乗用車』を

木っ端微塵に吹き飛ばすかのように。

が、

中国の『白灰色の戦車』から撃たれた、

一発のロケット砲が

ソ連の『氷上戦行車』に命中し、

真っ赤な炎が、

アムール川の氷の川面の

真ん中で高く上がり、

燃え続けた。





 それが『合図』だった、

かのように、

左右の川岸の『戦車隊』が、

『老乗用車』を飛び越えて、

ロケット砲を撃ちあった。

 六人は、

車の中にうずくまっていたが、

ビルが車のキーを回した。

エンジン音が幽かにする。

二・三度繰り返した時、

エンジンが始動した。

ビルは、

クラッチを踏み

チェンジをローに入れて、

一気にアクセルを踏みこんだ。

『老乗用車』は、

音だけは

高射砲に負けない位に

たてながら

のろのろと動き出し、

『白灰色の戦車隊』に

進んで行った。

 『真ちゅう色の戦車』が

それに気付き、

ロケット砲を

『老乗用車』に撃ち始めた時、

『白灰色の戦車隊』は、

連続一斉射撃を

『真ちゅう色の戦車』に浴びせ、

『老乗用車』を援護した。

すさまじい爆音と破裂音と

炎と火の弾と

高射砲とサーチライトが、

『ダイヤモンド・ダスト』の

瞬(またた)きのように

飛翔(ひしょう)した。





この時以後、

次の年の一九六九年の八月まで、

『ソ連』と『中国』は、

アムール川を挟んで

三度の激しい『武力衝突』が

繰り返され、

双方に数万人の『死者』が続出した。

 その死者の中に、

ラーゲルに残り召集された

『マンスノバじいさん』を初め、

十七人の『外人部隊』も

含まれていたと

いうことである。





    『第十章 若き紅衛兵(こうえいへい)の嘆(なげ)き』に続く 





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第一章   白夜のささやき

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第二章   カットグラスの輝き

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第三章   裁き

        (公開中)

第四章   轟(とどろ)き・・・

(ダニーの話)

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第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

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第六章   殺人の痕跡・・・

(ドクター荻野の話)

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第七章   「アッシュ」の手引き・・・

(ビルの話)

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第八章   偽装の閃(ひらめ)き

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第九章ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

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第十章   若き紅衛兵の嘆き

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第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

(五人めの妻の話)

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第十二章ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

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第十三章  飛べ!低く飛べ!

(チェ・ゲバラの話)

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第十四章  リビアンスター

(リビアの星)

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