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パープル ・ サンフラワー(小説)

マルタン丸山



第二章 カットグラスの輝き







翌朝八時、

栗須(くりす)は

子供の声で目覚めた。

下段のベットは、

三・四歳の青い目の男の子が

車の玩具で遊んでいた。

栗須と同じ部屋には、

「ポーランド」 の

家族が乗り合わせている。

子供の名はスクシェック。

言葉は、皆目通じなかった。

しかし、この部屋は彼の行動によって回転し、

心が和んだ。

列車はソ連のなだらかな田園風景を

走っている。

五十前後で車両係の「チョビ髭」の男が

来たが、言葉はやはり通じない。

スクシェック家族の真似をして、

「ダー、ダー」と言ってみた。

すると十分後にガラスコップに入った

「紅茶」が運ばれてきた。

「チャーイ!」と言って、

栗須の掌から五カペ(二十円)を

持って行った。

湯気の中からマイルドな香りが広がり、

実においしい。

十二時、

国境の町「ブレスト」に着いた。

田舎町の小さな古びた駅だ。

ヨーロッパ線路に合う車輪に

かえるためである。

ホームはなく、

車両からそのまま砂利の線路横に降りて、

体育館のような建物に入った。

ここは人種の坩堝(るつぼ)だった。

ロシア系・白ロシア系・リトアニア系・

ポーランド系・ユダヤ系……

あらゆる人種がそこにいる。

顔・髪・髭・服……すべてが違う。

目の色一つとってみても、

黒・茶・水・グレー……。

髪や鼻の形にしてもすべてが異なっている。

日本人の中だけで生活した栗須にとって、

それは驚異であった。

すべてが違い、すべてが不思議に

共存している。

彼は、物珍しげに構内を歩き回った。

体育館ほどの大きさの中央に、

ベンチが二十から三十位あり、

雑貨屋的な売店が一軒あるだけの

ひなびた駅だが、

人種では東欧見聞録の観があった。

ただし、彼らは、じっと座っていた。

話すこともせず、動くこともせず、

じっと座って待っていた。

いや、待っているというより

耐えているようでもあった。

彼らは列車の待ち時間を

耐えるだけでなく、

人生に耐えてでもいるようだった。

彼らは長い年月、戦い・支配され・移動し・

破壊し・崩壊し・建設し・戦い……

を繰り返してきた民族なのだ。

そして今、ただ耐える時なのかもしれない。

栗須はベンチに腰掛けて、

いつだったか世界史で学んだ

「民族大移動」を思いだそうとしていた。

ヨーロッパ大陸の地図上に、

大きな矢印が左右から上下からと、

年号が変わるごとに移動していた。

その地図のちょうど真ん中の

小さな国に目が止まった。

黄色に塗られたその国は、

上から押し寄せてきた「赤い大きな矢印」

の先端に位置していた。

西側と東側の境界線にある国、それが

「チェコ・スロバキア」だった。



「……サンフラワー(ひまわり)をお持ちですか?」

突然、

隣に座っていた男が英語で話し掛けてきた。

栗須は煙草に火を付けた時だったので、

ライターの火を、

男の方に持っていった。

「サンフラワーをお持ちですか?」

男が繰り返した時、

栗須は我に返って

ライターの火の元で男を見た。

男は口髭をたくわえ、

瞬き一つせずに炎を映した

グレーの目で見つめていた。

「パープル・サンフラワー

(紫ひまわり)ならもっている!」

栗須は辛うじて答えることが出来た。

男は少し頬を緩めて、

訛のある英語で話だした。

「あと一時間ほどで、

あなたは列車に乗り込みます。

すると国境警備兵と税関員が

あなたのパスポートを見に来るでしょう。

あなたは、日本から持ってきた

ドルだけを申告書に書いて

サインをしてください。

決してテープレコーダー・ルーブル・カペ

そして他のドル紙幣は見せないでください。

あなたの鞄の中は簡単に

チェックするでしょうが、

それでO・Kです。分かりますか?」

栗須は軽くうなずいた。

男は立ち上がり、

外へゆっくり歩いて行った。

栗須は、背広の内ポケットに

手を入れてみた。

昨夜、一等書記官から手渡された封筒が

入っている。

中身はまだ見ていなかった。

取り出して口だけ開き、

中を覗いてみた。

グリーン紙幣(米国紙幣)百ドルが見えた。

指先で数えてみる。

三十枚(約百万円・一ドルは三百六十円)

スエーデンの半年間のアルバイトと

同額の紙幣。

栗須はあたりを見回した。

あいかわらず、人々は無表情に座っていた。

しかし、栗須の喉は、無性に乾きだした。

封筒を内ポケットに入れ、

ボタンをかけた。

そしてズボンのポケットに手を入れてみた。

小指の爪程の「カペ」が

指に何枚も触った。

立ち上がり、さっきの男と同じ歩調で

ゆっくり歩いた。

スパイ映画の主人公のように思えてきた。

そう思うと、ますます喉が

焼き付きそうだった。

売店で三カペの牛乳と五カペの黒パンを

買って、ベンチに戻った。

出来る限り「カペ」は使っておきたかった。

黒パンをひとかじりしたが、

ひどい消毒の味がした。

急いで牛乳の蓋をはずし飲み干したが、

ドロッとした白色の、

生温かく酸っぱい味で、

勢いよく吐き出してしまった。

無表情な人々が初めて栗須を見詰めた。

汗が背中を流れるのを感じた。

白く牛乳が腐ったような味のそれは、

その当時、日本では

ほとんどお目にかかれない食べ物だった。

十三時、

二番列車の三十四番の部屋に入ったが、

中は一時間前と同じ状態だった。

ほっとして、

鞄からテープレコーダーの入った袋を

取り出し、ベットの隅に置き、

シーツと毛布をかけた。

すぐにカーキ色の年配と若い男が

二人入って来た。

申告書に財布の中のドルを書き、

入国時の申告書とパスポートを添え渡した。

若い方が、サムソナイトと

ショルダーバッグを簡単にチェックし、

O・Kと合図した。

ポーランドの家族の番になった。

若いカーキ色は、

カバンの中の一つ一つをベットに出させて

チェックしだした。

紙包みのすべての中身を掘り出し、

下着を入れたものまで調べあげ、

何もないことが分かると部屋を出て行った。

スクシェックの父親は、

両手を脇にあげ、

大きなジェスチャーをして、

ポーランド語でつぶやきながら、

ベットの上のものを片付けだした。

栗須は、その光景を見ながら、

何か寒気がするのを覚えた。

もし、この家族と同じように自分が、

調べられていたら……、

三十枚の百ドル紙幣、テーペレコーダー、

オープンテープ……、

間違いなく列車から降ろされ、

彼らの部屋で取り調べられているだろう。

その時、もう一つの事が頭に浮かんだ。

もし、これが、あの一等書記官か、

大使であったらどうだろう。

やはり、このポーランド家族と同じ状態になり、

テープ類は発見されていただろう、

と思った。

『この国は、

同盟国の人間を、

世界で一番信用していないのです……』

一等書記官の言葉が、

それを物語っていた。

次の瞬間、

ぞっと血の気を引くような想像が

頭をかすめた。

……もし、ナホトカのソ連船で、

自分が一等書記官と

部屋をチェンジしなかたなら……、

分厚い眼鏡のカーキ色の軍服女が

一等書記官の部屋を調べて、

椅子の下のテープ類を発見していたら……、

テープの内容は分からぬが、

あのチェコの大使が言うように、

チェコの「プラハの春」に関係する

内容であるならば……、

一等書記官はその場で逮捕されて

いたはずであり、

一等書記官は、十二分にそうなることを

知っていたはずだ。

……それなら……あのテープ類は、

故意に椅子の下に置かれ、

自分と部屋を替わったことになる。

テープ類を安全にソ連内に入れるには、

同盟国以外の人間が

持ち込むしかない。そして、

テープ類が安全にソ連外に出るには、

やはり同盟国以外の人間しか

ありえないのだ。

その同盟国以外の人間として、

栗須が的となり

射落とされたことになる。

この仕組まれたレールの上を、

栗須は走り出したことを感じだした。



列車が動き出した。



栗須の頭の中は、ぐるぐる回転した。

十六時、

ポーランドに入ったらしく、

小さな駅で女の税関員が来て、

パスポートとドル数を書いた用紙を

見るだけで部屋から出て行った。

栗須は吐息をついた。 

間もなく、スクシェック家族が

身支度を始めた。

栗須が名刺を渡すと、

スクシェックの父親が

自分の住所と名前を書いて、

礼らしきことを述べて

部屋から出て行った。

十七時、

大きなドーム型のワルシャワ駅に着いて

窓から覗くと、

スクシェックが手を振っているのに

気付いた。

列車は動き出し、田園風景の中を

一路「プラハ」へ向かった。

食堂車で、バターで炒めた

温かいチキンと野菜と、一ドルのビールが

彼を酔わせた。

部屋に帰って一人でいると、

耐えがたい何かが襲った。

テープレコーダーから始まる

一連の出来事が頭の中で駆け巡った。

スクシェックのベットだったソファーで

眠った。

0時三十分。

停車した列車に、

ポーランドの女税関員が来て、

パスポートを見て出て行った。

その後すぐに

チェコスロバキアの男の税関員が来て、

パスポートとそこに貼り付けたビザを

見て行きかけた。

「プラハ、プラハにいつ着きますか?」

腕時計を指さして

日本語で言ってみた。

「ナイン・オー・オー」

と言って、

紙に「9:00」と書いて出て言った。

栗須はまたソファーで眠った。

また、夢を見た。

プラハの名も知らぬ通りを歩いていた。

一つの通りは

人々が華やかに歌い踊っていた。

一つの通りは

木枯らしが吹きつけ、

体が凍り着くように寒かった。

「プラハの春と冬」か、

と夢の中で思った。

あてもなく歩いていると、

光子が角から現われ、何か叫んでいる。

駆け足で近付こうとするが、

その距離は変わらない。

耳をすますと

光子はロシア語で歌っている。

どこかで聞いたロシア民謡だ。

メロディを口ずさむ。

すると光子が近付いてくる。

ロシア語と日本語のデュエット。

ノックの音のリズムがかさなる。

メロディ・リズム・ハーモニー。

栗須は手をさしのべる。

ロシア語が日本語に変わる。

歌詞は、

『プラハは危険、

プラハはダメよ。

プラハは死ぬわ』

と聞こえてくる。

ノック音のリズムが激しく響く。



「プラハ!プラハ!

チャーイ!チャーイ!」

その声で現実に返った。

目の前に紅茶を持った「チョビ髭」を見た。

ポケットから小銭のカペを出して

すべてを彼の手に握らせた。

列車は停車している。

「まろやかな香り」と

「ストレートな渋味」が身体中に広がる。

窓のブラインドを上げてみる。

その時、栗須は目を見張った。

朝日に照らされた何かが、

ダイヤやエメラルドやヒスイが

飛び散るように

彼の目を射た。

紅や黄や青や白の光が

代わるがわるに照り輝き、

薔薇色やビロード色に包まれて、

あたり一面に反射している。

まるで別世界のように生きている。

栗須は目を細めて眺めた。

その輝きは、

大きな工場らしい建物の一角から、

太陽の光を吸い取り、映えていた。

よく見ると、それは、

うず高く積み上げられた

「カットグラスの破片の山」だった。

が、実に鮮やかに、

朝日を浴びて生きていた。

「プラハ」は生きている。

太陽光線を十二分に受け取り、

照り輝くプラハ。

何十色もの色彩光線を放射するプラハ。

プラハはまさしく「春」だった。

栗須は、香ばしい紅茶をすすりながら、

窓に手を差し伸べ色彩光線に触れてみた。

すると色彩光線が彼の体を駆け回り、

生きている喜びを感じた。

列車はのろのろと動き出した。

時計を見ると、

六時五十五分だった。

あと二時間あると思った時、

「チョビ髭」がコップを取りに来て

言った。

「プラハ!

ナイン・オー・オー・タイム。

モスクワタイム、

ツー・タイム、チェンジ、チェンジ!」

変なリズムだったが、

チェコの税関員も「ナイン・オー・オー」と

言っていたのを思いだした。

モスクワと時差が「二時間」

あることに気付いた。

急いで身支度をした。

テープ類をショルダーに入れ、

背広の胸に手を置き、

ドル紙幣を確認した。






九時、、、

プラハ駅に降り立った。

十九世紀のバロック調の駅である。

多くの人々が重い鞄を持って

一方向に歩いていた。

栗須もゆっくりそれに従った。

「シュウンク・マイケル」の名を

手帳で確認しながら、

ゆっくり歩いた。

久しぶりに出会ったのだろう家族が

抱擁(あいぶ)し合っている光景が

至るところで目に付いた。

シャンデリアが下がった構内に入って、

インフォーメイションのマークの側まで

歩いて行った。

突然、行き来している人々の間から、

顔の下半分を

「赤ヒゲ」で覆い隠し、

体格のがっしりした男が、

栗須の前に現われた。

「ドブリジャン、ヤポーネ

(こんにちは、日本の方)。」


ちょっと間があって、

今度は英語だった。

「サンフラワー(ひまわり)を

お持ちですか?」

「パープル・サンフラワー

(紫ひまわり)なら持っています。」

二人は握手をかわした。

「こんなことは初めてなので……」

栗須は微笑して言った。

「私もです。どこかの映画のようです。」

赤ヒゲは、少し白い歯を見せ、

ドイツ語訛のある英語で言った。

温和な笑顔だった。

「ホテルに案内します。」

サムソナイトを栗須の手から

軽々と受け取り、

先に歩きだした。



駅前から彼の車に乗った。

「少しだけ市内を回って、

ホテルに行きます。」

と言って走りだした。

「勝利の二月通」から「スメタナ劇場・

国民博物館・バーツラフ広場・

ナープシュペ通を右に折れて、

火薬の塔・ティシ教会と説明しながら、

ある建物の前で車を止めた。


「カフカの家です。」

「カ・フ・カ……?」

「フランツ・カフカです。

『DAS SAHLOβ』、

『DAR PROZEβ』、

『AMERIKA』の作者です。」

「ア・メ・リ・カ……?」

「そう、英語の翻訳なら

『キャッスル』……」

「『城』・『審判』・『アメリカ』・

『変身』の、あの『カフカ』ですか?」
「ええ、そうです。」

「読みましたよ。カフカは、

チエコスロバキア人?」

「いいえ、そうではありません。

今から八十五年前、当時

オーストリア・ハンガリー帝国領だった

このプラハで、

ユダヤ系ドイツ人の子として

生まれました。

……プラハ大学を卒業して、

保険協会に務めながら

執筆活動をしていました。

ここがその家なのです。」

「カフカは、もっと古典の人と

思っていました。」

「亡くなったのは、

四~五十年前です。

彼の作品は、

大戦後世界中で翻訳されています。

あのソビエトでさえ、

三・四年前に翻訳されました。

私は、プラハ大学院で

彼の研究をしているのです。」

赤ヒゲは、

やや誇らしげに言った。

「カフカの作品のとらえ方は、

世界中で違っています。

人間のもろさや弱さがテーマですが、

読む国や人々によって異なるのです。

そこにおもしろさがあって

研究しだしました。

パープル・サンフラワーさん……。」

赤ヒゲは、

栗須のことをそう呼んだ。

「……日本に帰られたら、

カフカについて書かれた本を

送ってくださいませんか。

わたしは、

日本の方の捉らえ方を

知りたいのです。」

「栗須は、快く引き受けたが、

自分が日本に帰る日がいつなのか、

その疑問が頭をかすめた。


車は発射した。

赤ヒゲが続けて話しだした。

「チェコスロバキアは、

カフカの作品の人間のように、

弱くてもろい脆弱(ぜいじゃく)な国で、

いつ壊れるか分からない状態です。

……その点、日本はすばらしい躍進です。

私の家庭でも、妻と子供が二人いますが、

使っているのは、

メイドイン・ジャポンです。

ミシン・時計・カメラ……。」

赤ヒゲはまた白い歯を見せた。

「実は、私は日本の方を見たのは

初めてなのです、

あなたが……。サムライの姿か、

と思っていた。

……これは冗談ですが、

どうしても昔からの日本のイメージと

工業製品とが結びつかなかった。

日本のことは、少し知っています。

鎌倉・奈良の大仏、

京都の五重の塔から、

ゼンガクレン……。」

「ゼンガクレン?」

「ええ、テレビニュースでよく見ます。

禅をする人が、

鉄棒を持って戦っている……。」


栗須は、あっ気に取られたが、

禅と学生紛争の違いを簡単に説明した。

が、自分の大学がその紛争によって

閉鎖されていることは

触れなかった。




あの時のことが、

栗須の頭をよぎった。




……学内は騒然としていた。

日本刀を振りかざした体育系学生。

鉄槍を突き出し、

それぞれの色分けをしたヘルメットを

被ったセクト学生。

ノンセクトの学生は、

やや離れて取り巻いていた。

そして、校門の前には、

ジュラルミンの盾を持った機動隊が

何重にも整列していた。

ヤジと怒声がマイクを通して

入り交じっている。

栗須は、一番後方の法文校舎の

丘の上にいた。

何千人もの学生が、

そこにはいた。

誰の合図でもなかった。

もし、合図と言えば、

日本刀と鉄槍の接触による

「火花」だったかもしれない、

この大きな塊は、

激しくぶつかり合った。

女子学生の悲鳴や泣き叫ぶ声が、

異様に耳に残っている。

誰かが、

「機動隊が入った!」

と叫ぶ。

ジュラルミンの群れは、

大波のように押し寄せてきた。

何千人もの学生は

クモの子を散らすように逃げだした。



翌朝の新聞で、

三人の学生が死に、

百数十人が重傷を負った

と書かれていた。






「……日本は海に囲まれているのですね」

赤ヒゲが言った。

「チェコのまわりは、すべて陸です。

隣の呼吸が伝わってくる。

いつも外国を意識し、

現実的、具体的に認識しています。

何かの本にありましたよ。

日本は、

[水と平和はタダだ]と思っていると。

『外国』を観念的に捉らえていると。

チェコでは、

水も平和も自由も空気も、

すべて代償を払わねばならない……。」

車はインターコンチネンタルホテルの

玄関に止まった。

赤ヒゲは、

十三時に迎えに来ることを告げて

走って行った。

チェックインして部屋に行き、

何日めかのシャワーを浴びて

柔らかなベットに潜った。

横浜からの出来事が、

浮かんでは消えた。




ソ連船「ハバロフスク号」・

一等書記官・赤の広場・

光子・テープレコーダー・三千ドル・

カットグラスの輝き……、

日本を出発する時には

想像もしなかった出来事が

次から次へと浮かんだ。

……早くテープレコーダーを渡して

西側のヨーロッパに行こう、

明日か明後日、

プラハからウィーンに……

ミュウヘンからパリそしてロンドンへ……、

と心は走った。





だが、栗須にとって、

想像もつかない出来事が、

彼を待ち構えていることなど、

知る由もなかった。


十三時、

昼食を済ませて、赤ヒゲを待つ間、

英字新聞を手に取った。

『ワルシャワ条約機構、

チコスロバキアに、

武力介入のため、

会議か?』

と、一面トップに書かれていた。

読み初めた時、

赤ヒゲが回転ドアーから

急ぎ足で入って来た。

「パープル・サンフラワーさん、

大変です!

すぐチェックアウトして

ここから出ましょう!」

バッグが部屋にあることを告げると、

かれはエレベーターの方へ栗須を導いた。

ちょうど何人かのグループが降りて

来た時だったので、

二人は乗り込んだ。

赤ヒゲは、エレベーターの中から

部屋まで、英語を話し続けた。

「……今朝十一時、

ソ連軍は、ポーランドから

国境を越えて

武力介入しました。

戦車がプラハに向かっています。

チェコ駐留のソ連軍も

動きだしたそうです。

戦車が来ます、

このプラハに。

我々は何の武器も持っていない。

あなたはすぐに、

このプラハから立ち去るべきです。

日本大使館へ行きますか、

それとも駅から列車で……。」

「どっちの方がいいでしょう?」

衣類をサムソナイトに詰め込みながら、

栗須は言った。

「分かりません。

でも、十四時に『ウイーン』行きの

列車があります。」

「それに乗れば、

今日中にウィーンへ……。」

「じゃ、それにします。」

「駅まで、私の車で送ります。」

エレベーターはなかなか

降りてこなかった。

各階で止まっているようだった。

階段で四階から降りた。

フロントには列が出来ている。

人々は、ソ連の武力介入の事を

話しているらしかった。

どの人も大きな鞄を持って、

苛立っているようだった。

国境の町ブレストの

じっと耐えている人種とは、

大違いだった。

十五分後チェックアウトして、

赤ヒゲの車に乗った。

表通りは、大勢の人々が右往左往していた。

車から、おびただしいクラックシヨンが

鳴り響いている。

旧市庁舎まで一キロ走るのが

やっとの事で、

後は身動きもとれなかった。

車を道路わきになんとか停車

させた赤ヒゲは、

「降りて歩こう」

といって外に出かけた。

その時、どこからか大砲の音と共に

機関銃から乱射された音響がした。

人々は、栗須が今来た方向へ、

叫びながら走りだした。

「オルコ!ジャール!パパリ……。」

「何があったのです?」

赤ヒゲに栗須は尋ねた。

車に乗り込んで来た赤ヒゲが言った。

「オルコー=敵、

ジャール=戦車、

ソ連の戦車が、この市内に

入って来ました。

パープルさん、もう駅は無理です。

大使館に案内します。

鞄の中の大事なものは

ショルダーに入れて、

行きましょう日本大使館へ。

二キロもありません。」

栗須は、サムソナイトの中のものを

頭に描いた。

しかし、

命と比較して、

大事なものは何もなかった。

ショルダーを斜めにかけて、

車から出た。

「ジャール!ジャール!オルコ!

クラーチ(助けてくれ)!

クラーチ……」
<br> 人々は走りながら叫び続けた。

大声で泣き叫んでいる人もいた。

「タレシビキーアート

(一緒に行きましょう)!」

大きな赤ヒゲの腕が、

栗須の体をかばうようにした。

栗須は赤ヒゲに礼を言った。

赤ヒゲはそれに続けて言った。

「『ありがとう』は、

チェコ語で『デクチ』です。

我々こそ、あなたに述べる言葉です。

日本人のあなたが、

チェコの為にプラハに来てくださった。

我々国民は、あなたのことを

忘れないでしょう。

デクチ、パープル・サンフラワー!」

「シュウンクマイケルさん、

私はただ、

ちょっと頼まれて来ただけですよ……」

三千ドルの事はふれなかった。

しかし、チェコの為に来た、

とまで思っていなかった心は、

今、はっきりと、

”チェコの為に来たのだ”と思えてきた。

「……テープは、

ムダになったのですね?」

赤ヒゲは、返事のかわりに

栗須の腕にまわした手を強く握った。

「チェッコ、カスキマソート

(チェコの宿命)、

サボラージョセンテビリオン

(会えて、よかった)、

カーペタ・ヤクミヤ!」

「なんですって?」

「カーペタ・ヤクミヤ=

永遠の友、です。」

また大砲の音が鳴った。

そして機関銃の音が響きわたった。

足を早めた。

人々は我先に逃げた。

カレル橋の傍に来た時、

人々は立ち止まった。

プラハの中心を流れる、

美しいブルタバ川の向こう岸から

カレル橋を渡って、

ジャール(戦車)がくるのが見えた。

真上の太陽が

真ちゅう色のジャールを照らして、

音をたてて迫ってきた。

人々は石を投げ始めた。

橋の上には、大・小の石が

散乱した。

人々は叫びながら投げ続けた。

その時、大音響と共に

真ちゅう色の長い筒から、

炎と煙と黒い塊が吹き出した。

カレル橋の上にそびえ立った

象徴的な建物が、

音をたてて崩れ落ちてきた。

人々はまた逃げ惑った。

「カレル橋の向こう側に、

日本大使館があるのですが……。」

言葉をつまらせて、赤ヒゲは黙った。

次の瞬間、

機関銃音が響きわたると同時に、

目前の何十人もの人々の体は、

アスファルトの上に崩れ落ち、

真っ赤な血が飛び散った。

「グラーツ(血だ)!」

誰かが泣きながら叫んだ。

機関銃が、また響きわたった。

その瞬間、

カレル橋の欄干に飾れた、

いくつもの大きな「カットグラス」が

飛び散った。

それは、真夏の太陽に照らされ、

朝の列車の中で見たと同じように、

宝石のような輝きの色彩光線が飛来し、

人々の上に落ちていった。

そして、赤く紅く染まった。

すべてが赤く……。

それと同時に栗須の膝が崩れ、

体に電流のような痛みが走った。

呼吸が激しくなった。

空気が肺に入ってこないような気がした。

息をしようとしたが、

空気はどんどん薄くなっていった。

「パープル!パープル!

パ~プ~ル~!」

赤ヒゲの声がかすかに聞こえた。

「ジャポ、カーペタ・ヤクミヤ

(永遠の友)、

ノン・メスキタドゼネ(死ぬな)!

パープル・サンフラワー!」

赤ヒゲの声が、

どんどん遠くなっていった。

栗須は、心の中でつぶやいた。

『デクチ。プラハの春。

飛び散るカットグラスの輝き……』

その時、

プラハの「市庁舎の鐘」が

十五時を告げ、

栗須の上に鳴り響いた。

栗須はそのまま意識を失った。




            『第三章裁き』に続く


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第一章   白夜のささやき

        (公開中)


第二章   カットグラスの輝き

        (公開中)

第三章   裁き

        (公開中)

第四章   轟(とどろ)き・・・

           (ダニーの話)

        (公開中)

第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

        (公開中)

第六章   殺人の痕跡・・・

         (ドクター荻野の話)

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第七章   「アッシュ」の手引き・・・

         (ビルの話)

        (公開中)

第八章   偽装の閃(ひらめ)き

        (公開中)

第九章ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

        (公開中)

第十章   若き紅衛兵の嘆き

        (公開中)

第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

          (五人めの妻の話)

        (公開中)

第十二章 ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

        (公開中)

第十三章  飛べ!低く飛べ!・・・

           (チェ・ゲバラの話)

        (公開中)

第十四章  リビアンスター・・・

          (リビアの星)

        (公開中)

ポーランド

チェコ・スロバキア

プラハ駅

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