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パープル ・サンフラワー(小説)

マルタン丸山

第一章 白夜のささやき

 

(1968年・8月・

ナホトカ・ソ連船「ハバロフスク号」内)

突然、栗須(くりす)の背後のドアーが

ノックされた。

ロシア語で何か大声で叫んでいる。

ドアーを開けると、

分厚い眼鏡ではち切れんばかりの

カーキ色の軍服女が立っていた。

ミサイルのようなロシア語を

捲(ま)くしたてる。

「ドーブルイ、ジェーニ(こんにちは)」

栗須は、知っている数少ないロシア語を

ゆっくり言ってみた。

「ダー、ドーブル……この部屋は、

あなたの部屋ではない。

彼らはどうした?」

ロシア訛(なま)りの英語が返ってきた。

彼らとはチェコ・スロバキアの一等書記官

A・Aトロナチェンコとその家族だ。

横浜でソ連船ハバロフスク号に

乗り込んだ時、

「彼ら」が栗須の部屋に来て、

丁寧な英語で部屋を換えてほしい

と願い出た。

その家族は、

日本から休暇旅行でモスクワに行く所

だったらしいが、

船の階の違う部屋に分けられて

しまったことが理由である。

栗須は気持ち良く引き受け、

その後のナホトカまでの一日半の船旅は、

その家族との語らいで楽しいものとなった。

グレーの髪の一等書記官と、

色白の妻、4~5才の女の子と

食事も一緒にし、

皿一杯に盛られた黒いツブツブを

口に入れて嘔吐(おうと)しかけた時には、

家族全員に一笑された。が、

この家族との初めての船旅は、

快適なものだった。

その黒いツブは、

「黒いダイヤ」と呼ばれる

チョウザメの卵

「キャビア」と後で教わったが、

日本食でいえば、差しずめ、

「フナズシ」と同じ種類の味と

臭いのもので、その「臭い」に、

その後、何度か彼を悩ました。

カーキ色の軍服は、

サムソナイトのバックを開けさせ、

簡単にチェックし、

申告用紙に手持ちのグリーンの

ドル紙幣を書かせて出て行った。

が、栗須は下船する為に

部屋を片付けている時、

椅子の下に二十センチ四方の小包を

見付けた。

中はテープレコーダーと

オープンテープが数本入っている。

表のイニシャルは、

「A・A・T」だった。
すぐに一等書記官の部屋に行くと、

衣服や品物が飛散し、

家族は茫然としていた。

カーキ色の軍服の仕業だった。

「ソビエトは、同盟国の人間を

世界で一番信用していないのですよ」

一等書記官は、

着物までもはがされた日本人形を

持ってポツリ言った。

娘が母親の胸で泣いている。

突っ立っている栗須の手から、

一等書記官は、テープレコーダーの

入った小包を取って礼を述べ、

急いで黒い鞄の中に仕舞いこんだ。

次の日、 

ナホトカからハバロフスクまで

十七時間シベリア鉄道列車に乗った。

ツーリストの女性に、

すべてを指示された行動で、

飛行場まで行き、飛び立った。

窓からは、広大なシベリアの大地が

地平線まで続く。

カメラでシャッターをきろうとした時、

突然、アイシャドーも瞳もブルーの

スチアーデスが、

栗須の横から腕を伸ばし、

ブラインドを引き下ろした。

そして、強い調子で「ノー!ノー!」と

二度叫んだ。

軍事基地があるらしい。

そういえば、列車の中で駅に着くたびに、

戦車を乗せた列車の間には、

必ず別の列車を止め、

見えないようにしていた。

 翌日、

夕方五時にモスクワ飛行場に到着する。

時差が五時間程あるので、

真夜中の体調だった。

しかも、飛行機酔いと耳鳴りの為に、

栗須は閉口していた。

 スベトラナというツーリストの女性が、

バスで市内まで案内してくれ、

ベルリン・ホテルに着いたのは六時だった。

「明日は、モスクワ市内を案内します」

と、流暢な日本語を言い残して出て行った。

夕食を早めに済ませ、

シャワーを浴びようとしたが、

部屋にはなく、

そのままベットに潜り込んだ。

深い眠りだった。

電話の「ベル」で起こされた時、

栗須はいやな夢を見ていた。

どこか見知らぬ街で、

逃げても逃げてもカーキ色が追い掛けて来、

耳の奥にキャビアを詰め込んできた。

鼓膜が破れ、

頭の中はキャビア漬けになって異臭が漂い、

泣き叫んでいるのだった。

「ハロー、栗須さんですか。……」

声の主は、

あのチェコ・スロバキアの一等書記官

A・Aトロナチェンコだ。

「もう夕食はお済みですか。

今、ベルリン・ホテルのロビーから

電話しています。」

「ええ、夕食は済ませたのですが……。」

「じゃ、ウオッカでも飲みませんか。」

「ええ、いいですとも、

ちょっと待ってくださったら、

降りて行きます。寝てたもので……」

時計を見ると八時だった。

眠ってから一時間だった。

耳の中のキャビアはもうなかった。


ロビーで出会った時、

トロナチェンコ一等書記官は別の紳士と

一緒だった。

名は、カルダシェフで、モスクワの

チェコ・スロバキア大使らしい。

栗須の頭の中を、何かが掠めたが、

さっきの夢のせいだと思い直して、

握手を交わした。

バーでは五ツ星のウオッカを注文した

カルダシェフ大使は、

船と飛行機には、外国ビールはあるが、

ここでは

ソ連の高くてまずいものしかないことを

ドイツ訛の英語で話した。

ウォッカがテーブルに運ばれて乾杯した後、

黒く濃い眉毛の大使が栗須のことを

尋問するかのように訊ねだした。

栗須は、船内で一等書記官に話した

内容を繰り返して言った。

それは、自分は経済学を研究する

大学院生で、学生紛争のために

学校閉鎖にあい、

一~二年間ヨーロッパを

ヒッピー旅行(無銭旅行)するため、

一番安いソ連コースで

モスクワから北欧のヘルシンキに

行く予定であること、

できれば、スウェーデンか、

どこかでアルバイトして

イングランドで勉強したい、ことだった。

その頃の学生が、

ヨーロッパを一人旅する時の

一つのパターンである。

大使は一つ一つ確認するように

頷き相槌を打った後、突然、

チェコ・スロバキアの「プラハ」に

行ってくれないか、と言いだした。

チェコに、ある品物を持っていってほしい、

というのだ。

「チェコのことは何も知らないし、

何の興味もない……」


と栗須は冷たく答え、

……ヤバイ話二ノルナ、という言葉を

心でつぶやいた。

が、相手のさがりかけた眉のために、

「知っているとしたら……」と、

ちょっと笑いながら、

「……テレビで見た

東京オリンピックの体操選手、

チャフラフスカさんの演技だけです。」


と冗談のつもりで付け足した。

「オオー、チヤフラフスカ!

彼女は私たちの同志です。

御紹介しますよ。」

「いや、それは嬉しいが、

予定が大きく違ってくる。

……私は、フィンランドから……」

「分かっています。しかし、

あなたに行っていただきたいのです

チェコへ!

チェコのプラハは今、

『プラハの春』を迎えています。

御存知ないかも知れないが、

今、チェコは、……」

大使は突然声を潜めて続けた。

チェコ・スロベニアは、

ここ数年西側に傾き、

民主主義思想を取り入れ

自由化しようとしています。

民主主義的社会主義です。

それを『プラハの春』と言うのですが……」

大使は言葉を詰まらせた。



「民主主義的社会主義?」



 「そう、それが……今……逆もどりする……」

「栗須さん、今晩私たちがこのホテルに

お尋ねしたのは、

あなたにお頼みしたくて……」

一等書記官が言葉を続けて言った。

「あなたに、ぜひチェコに行って

いただきたいのです。

我々の国を救うために!」

「ちょっと待ってください。

私は、ただの旅行者で、

しかもヒッピー旅行者で、一日三ドル(約千円。$=¥三六0)で、

生活するつもりのわずかなお金しか

持ってない人間で……」

大使は栗須の言葉に重ねて言った。

「分かっています。

だからあなたにお願いしているのです。

今、私たちは動けません。動けば……」

「動けば……?」

「栗須さん、それ以上は、

あなたが引き受けてくださることを

確認してからでないとお話しできません。

ここはモスクワです。

このテーブルにだって『隠しマイク』が

あるかもしれない。」

一等書記官が口を挟んだ。

「ここ数年、

あなたと同じようにモスクワ経由で

ヨーロッパに行かれる日本の若者が

増えています。

二、三年前から外国人に通行許可された

シベリア鉄道によってですが、

しかし、この夏のこの日に

モスクワにいる日本の若者は、

そう多くはありません。

しかも、わが同志の一等書記官

トロナチェンコと知り合いである人は、

あなた一人です。

この話は、誰でもいいという訳では

ありません。

まったく見ず知らずの人に頼めないのです。

なぜなら、我々は命を賭けています。」

栗須は黙っていた。

「あなたにチェコ・スロバキアの

話をします。」

大使はゆっくり語りだした。



「チェコ・スロバキアは、

チェックとスロバキアの二つの

民族と言語から成り立っている国家です。

第二次世界大戦前に、

ドイツ・ナチに占領され、大戦後は、

ソビエトが我々を指導しました。

マルクス主義です。

独裁政治からマルクス・レーニン主義へ。

我々は、その思想を愛しました。

人間はすべて平等で、

人に対する「愛」がありました。

しかし、

年月が立つにしたがって、

それは色あせてきました。

どんなにすばらしい思想でも、

それを実行する人間が

間違って行動すれば、

それは薄汚ない鎧(よろい)となる。

スターリン・ブレジネフ(ソ連の書記長)

という大国は、ドプチェク(チェコの

書記長)という小国から搾取(さくしゅ)

し初めたのです。

そして、言論弾圧・逮捕と続きました。

搾取だけならまだ耐えられる。

しかし「言論の弾圧」、

自由に自分の考えが言えない苦痛には

耐えられない。

それがチェコ・スロバキア人気質です。」

大使は間をおいて続けた。

目は潤んでいた。

「今、二つの民族・言語が一つになって

『プラハの春』を迎えようとしている。

政治・経済・言論・文化のあらゆるものが、

ソビエトを中心とした東欧から独立しよう

としている。

資本主義的社会主義、あるいは

社会主義的民主主義、自由に言論できる

『人間に対する愛のある社会主義』、

それが『プラハの春』です。」

大使は、また間をおいて言った。

「あなたの国日本は、大戦後、

ゼロから出発し今日まで発展した。

いろいろの問題はあろう、

公害・犯罪・学生紛争……しかし、

我々の国が学ばなければならぬ事は

いっぱいある。

我々は、日本の政治・経済・社会・企業の

経営のあらゆる知識や

ノウハウ(技術情報)を

手に入れました。

それが、船の中であなたが一等書記官に

届けてくれたテープです。

そのテープによって、

『プラハの春』は花を咲かせると

確信しています。

『プラハの春』は、『私の春』であり、

私の『子孫の春』であり、

『あなたの春』でもあるんです。」

「『わたしの春』?」

栗須は、その意味に戸惑った。

ウオッカに酔った気がした。

「チェコ・スロバキアに今、

自由に出入りできるのは、

チェコ・スロバキア人ではなく、

外国からの観光客だけです。

同盟国は無論、ソビエト人ですら、

軍人は別ですが、

入国するのが難しいのです。」

大使は、ウオッカを口に入れて言った。

「些少(さしょう)ですが、

あなたがストックホルムでアルバイトを

なさる半年分と同額の「ドル」と、

チコスロバキアの「ビザ」及び

ウィーン行きの「チケット」を渡しします。

あなたは、ただプラハにテープを持って行き

二、三日後、プラハからウィーンに行き、

後は自由に……」

「いつ……」

「明日の夜」

「急な話ですね。」

「そう、我々は一日も早く届けたい。

なぜなら、この数日で何かが起こる

かもしれない。

日本のあるところから、

その重要な一件を入手しました。

しかし、この情報を、

プラハに連絡する術がない。

電話・通信すべて盗聴されている。」

「もし、このことが、

あるいは私が持って行くテープが、

ソビエトの軍か誰かに発見されたなら、

どうなる……」

「そうならないことを願っていますが、

しかし、

それは別に問題はないと思います。

事実を言って戴ければよい。

そういう事態になっても、

あなたに迷惑はかけません。

我々がすべての責任を取ります。

 あなたは、ハバロフスク号で知り合った

トロナチェンコ 一等書記官に、

知人への土産を持って行ってほしいと

頼まれたとでも 言えばいいでしょう。

あなたには何の被害も及ばないのです。

あなたは外国の旅行者・観光客

なのですから……」

「……考えさせてください。」

「ええ、いいでしょう。

明日の昼までに返事を下さい。

イエス・ノーどちらにしても「チケット」

と「ビザ」は用意します。

ノーなら、あなたは御自分の予定通りの

行程で行ってくださればいい。

連絡は私共からさせていただきます。

良い返事をお待ちしております。」

その時、ミニスカートのウエトレスが

ウォッカのつまみを テーブルに置いた。

ミニスカートは、その当時、

ロンドンから世界に広まり始めであったが、

モスクワも、一般市民とは違い、

こういうホテルでは、試着させていた。

 「栗須さん、キャビアを

召し上がってください。」

栗須は、「黒いダイヤ」の

「キャビア」のために、

また耳鳴りがおこった。





翌日、

モスクワ大学生で、

ツーリストの「スベトラナ」に

バスで市内を案内された。

バスには、十人の老若男女の日本人が

乗り込んでいた。

ソ連船では日本人が二十人程いたが、

何人かがシベリア鉄道で大陸を

横断しているらしかった。

市内観光は、国会・プーシキン画廊・

官庁・レーニンスタジアム・ 赤の広場など、

お決まりのコースだったが、

栗須にとって退屈でなかったのは、

スベトラナの流暢な日本語を

聞いていたためだった。

ただ一度、モスクワ大学の校庭の池で、

水遊びをしていた子供たちが、

日本人を見て駆け寄って

チュウインガムをねだった時、

かなりの剣幕で叱り付けた ロシア語以外は

いつも穏やかな微笑をたたえていた。

五、六階建ての住宅群を

バスが通り過ぎた時、

栗須は彼女にそれが日本語で

「団地」であることを教えた。

彼女はノートに漢字で書き込んで

礼を述べた。

赤の広場の広い石畳を歩きながら、

栗須は彼女に、

その流暢な日本語は

どこで学んだのかを尋ねた。

彼女は、自分の父親が「日本人」

であることを語り、自分の名は、

日本名の『光子』と

付いていることを述べた。

 それからは、まるで古くからの

友人ででもあったように、

光子は栗須に話しだした。

一度でいいから父の故郷「日本」に

行ってみたいこと、

「桜の花」を見たいこと、

モスクワ大学の日本語学科に特進級で

合格したこと、

彼女の父親は医者として活躍している

ことなどを、 レーニン廟の長い列に

近付くまで話し続けた。

その時、白い服の若いカップルが

通り過ぎた。

彼女は何かを叫んで、

そして二人のカップルを見送った。

「この国では、結婚する時、

神の祝福ではなく、 人々の祝福をうける。」

そう言って黒い瞳をウィンクして見せた。

その黒い瞳の奥を見て、

栗須は光子の容姿はソ連人だが、

心と血は日本人であることを感じた。

二時、

バスはホテルに着いた。

光子に別れを告げて食堂に入った時、

一等書記官の眼が栗須を

とらえていることを知った。

同じテーブルについて、

チケット(食事券)を メイドに

手渡すや否や英語が響いた。

「行っていただけますか、

チェコ・スロバキアへ!」

栗須は、イエスかノーかを決定していた。

浪人・ヒッピー・浮浪者……

おのれの事を心の中で

そう呼んでいた栗須にとって、

この話は好条件だった。

「行きましょう、

『プラハの春』のために。

そして『私の春』のために!」

「ありがとうございます。」

「私はこれからどうすればいいのですか?」

「二十一時頃、迎えに来ます。

あなたは列車に乗って二日後、

プラハの駅で『一人の男』に会います。

名は『シュウンク・マイケル』です。

 彼はあなたに、

『ひまわりを持っているか』と

英語で話して来ますから、

あなたは英語で

『パープル・サンフラワーなら持っている』

と答えます。」

「パープル・サンフラワー……?」

 「そう、パープル=紫、サンフラワー=ひまわり」

一等書記官は窓際を指差した。

そこには間違いなく、

小振りだが「紫のひまわり」が

花瓶に咲いていた。

その紫いろは、他の物とは異質で、

不似合いで、

この食堂には滑稽だが、

しかし、

「忍耐強い力」とでもいえる

「気品と愛と温かさ」が

みなぎっていた。

「日本では黄色だけですが、

『紫色のひまわり』もあるのです。

日本の諺『所変われば品変わる』です。

そして、あなたが

『紫ひまわり(パープル・サンフラワー)』

です。」

夕方、栗須はツーリストに電話した。

呼び出し音の後、ロシア語で、

「エータ、ガヴァリート、ツーリスト

(こちらツーリストですが)」と

聞こえてきた。

「ハプラシーチェ、パジアールスタ、

クチュリェフォーヌウ、 ガスバジーナ、

スベトラナ・光子

(スベトラナ光子さんをお願いします)」

「クトー(誰)?」

「スベトラナ!」

「シュトー(何)?」

「スベトラナ・光子!スベトラナ・光子……」

栗須は何度もかまわずに叫び続けた。

間があって、

光子の日本語が聞こえてきた。

栗須は、一等書記官のことは言わず、

フィンランドから

スウェーデン行きは取り止め、

チェコ・スロバキアに行くことを告げた。

 光子に言う必要はなかったろうが、

言わずにおれない何か、と、

ツーリストがホテルに迎えにくる事を

告げられていたので、

断わっておくのが礼儀だろうと

思ったからだ。

彼女は怪げんそうな感じだったが、

栗須は電話を切った。



二十一時、

トロナチェンコ一等書記官がホテルに来て、

「白モスクワ駅」に車で向かった。

外はまだ夕方のように、白く明かるかった。

 『白夜』である。

野球場のナイトゲームの空と同じ輝きが、

白く空全体にひろがっている。

書記官は、車の中で、

例のテープの入った袋を手渡し、

鞄に入れるように言った。

モスクワの街は明かるいが

沈黙が続いた。

「あれが駅です。」

鮮かにライトで照らされたレーニン画像

と共に、駅が目に入った。

大勢の人々が急ぎ足で歩いていた。

駅のすべてを埋め尽くすほどの人間が、

どこから来てどこに行くのだろう。

一等書記官は、その疑問に

答えるように続けた。

「この国は、いや社会主義国のすべては、

一日三交代の労働です。

今、ちょうど、

帰宅と出勤のラッシユアワーなのです。」


駅前に駐車した一等書記官は、

栗須を先導して、

人垣を掻き分けてホームに入って行った。

三番ホームに着くと、

一等書記官は

「封筒」と「列車のチケット」を渡し、

 「グッド・ラック」

 と言った。

栗須も、またいつか会いたいことを述べて、

列車に乗り込んだ。

二番列車の三四番が

栗須の寝台番号だった。

通路から部屋に入って荷物を置き、

窓から構内を見渡した。

数多くの人間がやはりひしめき合っていた。

その時、

一人の女の顔だけが、

栗須の目に飛び込んできた。

「光子」だった。

光子がこの駅に来ていたのだ。

窓から光子の名を叫んだ。

駆け足で通路に出て

ホームに降りた途端に、

光子は叫び始めた。

「ニエット!ニエット!

プラホート・ザクルイト・チェコ!

栗須さん、

『チェコ』へ行ってはいけません!

今、チェコ・スロバキアへ行くと

あなたは大変なことに なります。

チェコは今大きく揺れています。

『旅行者』はそこには行けない!

 その渦に巻き込まれたら、

あなたの命さえ保障されないでしょう。

ニエット!お願いです。

行かないでください!」

栗須は言葉もなくたたずんでいた。

「栗須さん‼

私が言っていることが分かりますか?

チェコへ行けば、

あなたは『死ぬ』かもしれない!

 お願いです。

行かないでください!

 日本人であるあなたが、

チェコで死ぬことはありません。

父の祖国日本のあなたが、

危険な国に行くことはないのです……」

 光子の黒い瞳から

滴が落ちてきた。

列車は予告もなく動き出した。

栗須は濡れた頬にキスをして、

列車に飛び乗った。

 ホームの大時計は

十時を過ぎていた。

列車が規則正しい震動音を繰り返し出すと、

長く続いた『白夜』も

黒い塊に覆われてきた。

そして、

「白夜」が栗須にささやいた。

『白夜は終わり、

お前は死ぬ!』

 

       『第二章   カットグラスの輝き』に続く


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第一章   白夜のささやき

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第二章   カットグラスの輝き

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第三章   裁き

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第四章   轟(とどろ)き・・・

             (ダニーの話)

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第五章   ラーゲルの吹雪(ふぶき)

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第六章   殺人の痕跡・・・

          (ドクター荻野の話)

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第七章   「アッシュ」の手引き・・・

           (ビルの話)

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第八章   偽装の閃(ひらめ)き

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第九章 ダイヤモンドダストの瞬(またた)き

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第十章   若き紅衛兵の嘆き

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第十一章  マオ・ジュウシの駆けひき・・・

          (五人めの妻の話)

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第十二章ハッカ(旅する人)の呟(つぶや)き

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第十三章  飛べ!低く飛べ!・・・

           (チェ・ゲバラの話)

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第十四章  リビアンスター

          (リビアの星)

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